宮錦
- みやにしき【分類・力士】
- 大正~平成:大正2年~平成4年(1913~1992)
郷土を背負った力士
和29年(1954)秋場所。幕内前頭五枚目の宮錦は、大関・栃錦を突き倒して銀星を挙げた。そして続けざまに横綱・鏡里を外掛けで破り金星を挙げ、郷土の人々を熱狂させた。宮錦はこの華々しい成績で敢闘賞を受賞、翌30(1955)年春場所に小結に昇進した。
当時、南部領域から相撲三役にはなれないと言われたジンクスを破っての関取だったが、その三役までの道程は辛く厳しいものだった。
宮錦は本名、野沢浩氏。昭和2年(1927)5月30日鍬ヶ崎に生まれた。鍬ヶ崎小学校から宮古小学校に転校。当時から体が大きく、野球、相撲、ランニングなどスポーツは万能だった。その少年時代の相撲は群を抜いて強く、宮古市内はおろか郡下でも勝てるものはいなかったという。その彼が相撲界の目に止まったのは、当時、市内で洋服店を営み、有名な相撲通で横綱宮城山と親しかった梁川大吉氏がスカウトしたのだ。小学6年生の夏、野沢少年は突然、校長室に呼び出された。そこには梁川氏を通じて詳細を知らされていた元宮城山の芝田山親方がいた。「一緒に行くか」と言われ、考えた末「高等科を卒業してから行きます」と答えた。
やがて高等科の卒業を迎え、14歳の野沢少年は梁川氏に連れられ芝田山親方の元に入門した。時に昭和17年(1942)3月のことだった。野沢少年のシコ名・早池峰。同年5月場所で初土俵を踏む。しかし、宮古下閉伊では少年力士の横綱格であったが、プロの前ではコロコロ投げ飛ばされ、その自信も水の泡の如く消え失せてしまうのだった。
時局は戦争が激しくなり大相撲は興行できず、力士たちも勤労奉仕に駆り出され日本相撲協会も一時解散してしまう、そんな暗い時代だった。やむなく宮古に戻った彼は、興行が再開されることを信じて待った。やがて終戦。昭和20年(1945)10月、再開の通知をもらい上京。相撲協会も再出発。翌21年(1946)1月1日が初日と決まり、その初場所、彼は序二段で優勝を飾った。
その後、シコ名を宮錦と改め昭和26年(1951)、念願の十両に昇進。ここに関取が誕生した。翌年1月に入幕、翌場所十両に落ちたが29年(1954)に再入幕。その後の活躍は目覚ましく小結までの地位を修めた。
しかし、小結を頂点にケガに泣かされた宮錦は34年(1959)9月に十両に落ち、九州場所を最後に栄光の土俵に別れを告げ、引退した。173センチ、119キロと小兵ながら幕内通算28場所を踏み、高砂三錦の一人として人気を集めた。引退後は、年寄芝田山を襲名。高砂部屋付き親方として後進を育成、日本相撲協会審判委員、生活指導部などつとめ、平成4年(1992)7月6日、心不全のため神奈川県の病院で亡くなった。享年65才だった。