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宮古大相撲物語

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大相撲の本場所以外の地方で興業することを巡業という。そんな巡業の記録が宮古でも数多く残っている。現在のような相撲協会全体での巡業は昭和三十二年以降からで、それ以前は部屋単位、あるいは一門、複数の部屋が合同で巡業を行っていた。宮古は元小結宮錦の故郷でもあり相撲との関わりは深い。宮古の大相撲と巡業の歴史を振り返ってみよう。

目次

宮古と巡業相撲(明治期)

三陸汽船で宮古入り。旅館が満員になるほどの大盛況

 宮古での巡業は、直近では平成13年8月12日の宮古場所が記憶に新しいところだが、昭和の戦前、戦後、この地域で巡業は盛んに行われている。その巡業記録を見ると、明治44年(1911)10月18日に東京大角力の横綱梅ケ谷一行総勢180人が、北海道から三陸汽船で帰る途中、宮古に上陸し興業を行っている。これが近世では一番古く、最初の巡業記録である。力士たちの宿泊は熊安旅館で、土俵は東旧館に作られ、勧進元は宮古の山田屋と、鍬ヶ崎の玉川だった。この年は、近年にない豊作だったので、近在からの見物客で旅館が満員になるほどの盛況であったという。

 その後、大正期には藤ノ川、若常陸、大阪相撲剣山一行が来宮(別表参照)。昭和に入って常の花、玉錦、清水川、男女ノ川らの巡業があり、戦後すぐには、今もって相撲史を飾る大横綱の双葉山、前田川一行が、愛宕小学校で宮古場所を開いている。郷土宮古が生んだ小結宮錦も、高砂一門で昭和26年(1951)と29年(1954)に巡業で故郷に錦を飾っている。29年に郷土入りした宮錦は宮古漁協から20万円の化粧回しを贈られている。


宮古漁協が勧進元

人気力士揃い踏み。昭和の夏巡業

 明治、大正、昭和初期と行われた宮古での巡業。それまでは部屋単位や一門によるものだったが、昭和35年(1960)8月19日に行われた巡業は相撲協会全体によるものだった。宮古小学校を会場に土俵が設置され、当時の横綱朝潮や若乃花を見ようと近在から多くの人が訪れた。この時の板番付を見ると、勧進元は魚市場となっている。昭和42年(1967)8月11日に行われた巡業は、総勢約400人の力士、関係者が宮古入りした。

 この年は宮古漁協ビルが完成した年で、その落成を記念して宮古漁業協同組合が勧進元となった。当時は横綱大鵬、柏戸、佐田の山や、多くの人気力士の全盛期でもあった。テレビの普及率もあがり、その影響もあり、会場となった宮古高校グラウンドは、これら人気力士をひとめ見ようと黒山の人だかりとなった。入場は無料だったこともあり、土俵が作られたグラウンドには午前3時頃から始まる稽古風景から見学する人も多く、夜明けから興業が終わる夕方まで宮古の街は相撲一色に染まった。

横綱が泊まった宿

市内の名士宅や有力者宅に宿泊

 昭和42年(1967)の巡業では、横綱、大関の宿泊先として漁協関係者や市内の有力者の自宅が用意された。横綱では大鵬が三浦漁業部、柏戸が真木建設、佐田ノ山が中村漁業部に宿泊している。

 当時の様子を柏戸の宿泊先となった真木セツさんに聞いた。真木さんによればその頃、社屋兼自宅を新築したばかりで、当時としては珍しい水洗トイレが完備されていたことや、先代の真木幸助氏が柏戸と同郷の山形県出身という縁で宿泊先になったという。

 「付き人も3~4人宿泊。その人たちがチャンコを作った。食材は漁協から提供されたので、私たちは特に大変なことはなかった。しかし、自宅前の道路には横綱を一目見ようと大勢の人が集まった。横綱は二階から顔を出して手を振りながらあいさつしていた」という。


平成の巡業。大相撲宮古場所

人気の貴乃花は怪我のため不参加

 巡業の歴史の中でも一番最近に行われたのが平成13年(2001)8月12日の夏巡業「大相撲宮古場所」だ。宮古市制施行60周年記念として行われたもので、前回の巡業から34年ぶりとなった。この時は勧進元ではなく市内各団体による実行委員会形式で開催。熊坂義裕宮古市長を会長に当時の豊島純三郎宮古市体育協会長が実行委員長を務めた。宮古市民総合体育館を会場に土俵を設営。相撲協会から力士、関係者含め総勢335人が参加。当時の横綱は貴乃花と武蔵丸。貴乃花人気もあり前評判は高かった。しかし、巡業には貴乃花はケガのため不参加となった。それでも3168人の入場者を数え、この時期、東北各地で行われた巡業の中で二番目の入場者数だった。

 この巡業開催のため前年から芝田山親方(元横綱大乃国)が宮古入りしながら、関係機関と交渉を行っている。同親方は、宮古出身の力士元小結宮錦が保有していた年寄株「芝田山」を受け継いで襲名。宮古との因縁を感じることから「絶対に成功させたい」と意欲を示していたという。なお、参考までにこの時の巡業には引退した元横・綱朝青龍が小結として板番付に載っている


相撲史・巡業史を語る貴重な板番付

宮古に残された板番付を探す

 番付は大相撲における力士の順位表である。多くは紙に刷られたものだが、それに対して板番付というものもある。板番付は本場所では国技館の櫓の中ほどに、その他の地方場所では会場の入口付近に掲げられる。紙番付よりも歴史が古く、現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られている。これは大入り満員を祈念したものである。中央に「蒙御免」とあるのは、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興業を行っていたなごりである。宮古市内にも板番付は何個か残されている。巡業を開催した勧進元や、巡業の際、横綱の宿泊場所となった名士の自宅などに贈られている。

 現存する中で、一番古いものが昭和21年(1946)8月に行われた巡業の時のものだ。これは勧進元として昭和時代に活躍した故・梁川大吉氏のもので、遺族関係者の家に保管されている。

 この時は横綱双葉山や前田川一行が訪れ、愛宕小学校で開催されている。また、この番付下段には、四股名「早地峯浩」の名が見えるが、この名が若き日の宮錦である。60年の時を経ているが、宮古の相撲史を語るに貴重な資料のひとつである。このほか昭和35年(1960)と42年(1967)に行われた巡業の板番付3枚が宮古湾漁連にも保管されている。

宮古の勧進元として数々の巡業を行った興行師

相撲協会から地方世話役という勧進元の免許を許された梁川大吉

 相撲の巡業を行う場合、興行主である勧進元がいなければならない。昭和の宮古の巡業を語る場合、勧進元として忘れてはならないのが、市内で洋服店を営んでいた故梁川大吉氏だ。彼がどうして勧進元となったのか、その経緯を紹介してみよう。

 大吉氏は明治27年(1894)一関市に生まれた。第29代横綱宮城山と同郷で、小さい頃から隣近所の遊び仲間だった。

 その宮城山は角界に入門し、明治43年(1910)6月に初土俵。昭和2年(1927)1月に初入幕し、その後横綱に昇進。優勝回数二回。同6年(1931)1月場所を最後に引退。通算成績は18場所、90勝70敗1分26休だった。その後、年寄り「芝田山」を襲名した。

 大吉氏は、一関の尋常高等小学校を卒業後、東京に洋裁縫製の修行に出た。洋服の職人として腕を磨いていた大正時代、天皇陛下が宮古を訪れることになり、役人ら出迎え関係者の礼服仕立てのため二年契約で宮古の洋服店に招かれた。

 契約終了後、大吉氏はそのまま宮古に在住し大正9年(1920)に開業した。同14年(1925)に宮古洋服組合長になり、昭和13年(1938)には県洋服連合会専務も務めた。その後、宮古市体育協会長、教育委員なども歴任した。

 この間、宮城山とは深い繋がりが続いていた。年代は定かではないが昭和10年前後、東京に仕入れに行った際、国技館で相撲を見学した。その時、当時の金で二千円をスリに遭い、途方に暮れていた。宮城山との知り合いが縁で、当時の相撲協会が気の毒にと思い、相撲興業の話を持ちかけられたのが、勧進元になるきっかけだった。

 以後、何回か興業を行うようになって、昭和24年(1949)8月、正式に相撲協会から「地方世話役」という勧進元の免許を許された。大吉氏は勧進元の傍ら、宮城山のいる部屋(後、宮城山は芝田山部屋として独立)に、いい力士を入門させたいと宮錦、宮古潟などをスカウトしている。昭和33年(1958)7月、63歳で亡くなった。


藩政時代の相撲

藩主をはじめ、家臣も力士を召し抱えた

 南部藩は古くから相撲が盛んだった。歴代藩主の中でも特に第30代藩主・行信公、同36代藩主・利敬公は相撲好きとして語り継がれている。藩では城下の八幡神社付近に相撲屋敷を作り力士を召し抱え養成したという。また、相撲好きは藩主ばかりでなく、家臣にも愛好者が多く延宝年間の記録では家老職であった楢山氏、毛馬内氏、野田氏、葛西氏らがお抱え力士を持っていたとされる。召し抱えられた力士は南部領内出身だけにとどまらず、江戸召し抱えや他国出身者も積極的に南部力士として集め、諸国の召し抱え力士との対抗戦や、興行相撲、奉納相撲、勧進相撲の土俵に上げていた。

 享保17年(1732)には南部藩相撲奉行は南部力士16名を引率し京都へ行き、九州相撲と対抗戦を行い勝ちをおさめたと伝えられる。この時の土俵は四本柱の屋根付きで東西の屋根には鯱を飾ったもので、土俵は丸でなく方形だった。以来、この土俵は南部の角土俵と呼ばれたという。

 城下の相撲場は文化年間に一時廃止となり、文政期に再興したが天保2年(1831)に廃止となった。この時代は藩財政も厳しく農作不振で一揆などが頻発する時代でもあり力士の召し抱えは相当の負担であったことだろう。


相撲コラム

郷土が生んだ力士たち

 郷土が生んだ力士と言えば、その代表格は最高位が小結の宮錦(本名・野沢浩)であろう。昭和17年(1942)に芝田山部屋に入門し、昭和29年(1954)9月場所では前頭5枚目で、大関栃錦、横綱鏡里を敗って敢闘賞を受賞し、小結に昇進した。ケガに泣かされながらも努力で実を結ばせた遅咲きの関取だった。

 宮錦以外にも数名が部屋の門をたたいている。正確な年は不明だが昭和10年代には、やはり芝田山部屋に白浜出身の宮古潟(中村勝郎)が入門している。身体も大きく将来を期待されたが、戦争で兵役となり残念ながら相撲生活を断念せざるを得なかった。

 昭和31年(1956)には、宮錦を頼り、山田町田の浜から前田花(田畑英介)が高砂部屋に入門し初土俵を踏んだ。39年(1964)から十両を9場所(通算56勝76敗3休)つとめる関取として活躍。しかし怪我で引退している。

 その後、鍬ヶ崎出身の宮古洋(工藤一)が高砂部屋に入門しているが三段目で廃業している。  

宮古の相撲(江戸期)

御水主文書より

 宮古での相撲巡業の記録は残念ながら残されていない。代官所の下役であった御水主たちは相撲以外の芝居や見せ物の興行があると警備に駆り出されるため、雑書である御水主文書に記載されるが、相撲の勧進興行に関する記載は見あたらない。しかしながら、安政2年(1855)6月2日の記載に、少将様(殿様)御病気御危篤の記載があり、同年7月4日の記載に、七夕竹立候儀、当年は相扣(ひかえ)可申事。とし、花火禁止、盆中辻相撲、踊などの行事を慎むよう藩から申しつけられたという記述がある。このことから、江戸後期には神社の奉納相撲などが盛んに行われていたことがわかる。

 力自慢の男たちが大地を踏み固め、力を競い合い最も強かった者を横綱とする相撲はその土地の禍を鎮め、豊作と豊穣を意味するもので、宮古・下閉伊の村々では戦前まで神社の祭りなどで盛んに行われた。


女相撲の記念写真

花輪伝承館の写真より

 江戸の頃から見せ物的興行として存在していた女相撲は盲目の男力士と組み合ったりしたが格闘技というより曲芸や派手な格好で踊る見せ物が中心だった。明治の頃は盛んに興行が打たれ記録こそ残っていないが旅回りの女相撲一座はこの宮古にも来ていることだろう。

 実際の女相撲ではないが、仮装で女相撲の格好をした写真が花輪の伝承館の展示室にある。写真は戦後の昭和24年(1949)に花輪青年婦人建合運動会一等受賞記念と書き込まれ横綱の仮装をした女性二人の写真と、横綱を中心に各関取行司に扮した地区の女性らの集合写真だ。この写真から地区神社の祭りや運動会などで実際に相撲大会が行われ余興として女相撲が行われたかどうかは不明だ。余談だが女相撲の興行は後の女子プロレス興行へと変化し、現在はプロレスとならびスポーツ興行の王道でもある。

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