Miyape ban 01.jpg

宮古国際劇場

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

目次

36年の銀幕に終止符。宮古国際劇場

宮古市において平成3年(1991)まで存続した単独の映画館。宮古国際劇場が開館したのは昭和30年(1955)12月。当時は映画の黄金期で、市内には第一常盤座、第二常盤座、宮古館、宮古東映、大洋劇場、リラホールなどの映画館があり、国際劇場は7番目の洋画専門館として大通りに誕生した。
開館当時の岩手日報(昭30・10・8)の記事によると「建坪は150坪、木造モルタル仕上げ、一部二階建てで収客定員は350名、出資者は常盤座代表者の中居善助氏を中心に市会議長小林治三郎、商工会識所副会頭中屋徳三、三浦松五郎、堀田嘉男、後藤尚文氏らで、これは舞台式とし演劇にも兼用」と、近く着工し年末までに完工の予定と報じている。映写機2台が設備され、第一作として上映された作品は「歓望の谷」。その後「駅馬車」「シェーン」「十戒」「ローマの休日」をはじめ、近年には東宝系の邦画も上映し、「日本沈没」「戦場のメリークリスマス」などは連日、満員を記録したとう。
しかし、昭和40年の後半から50年以降、映画はテレビの誉及とともに斜陽産業となり、市内に7つあった映画館はひとつ、またひとつと閉館し、57年(1982)6月に系列映画館「第二常盤座」が姿を消したのを最後に、国際劇場ひとつだけが宮古に残った最後の映画館として狐軍奮闘を続けたが手軽に家庭のテレビで映画を楽しめるレンタルビデオが登場。入場者が滅少する中、改築を重ねながら客の確保に務めたがついに閉館となった。36年の間に国際劇場で上映された映画は約4千本。宮古において最後の映画館の閉館は大衆娯楽の大きな節目となった。

銀幕黄金時代

映画館の前身は芝居小屋であった。明治25年(1892)舞台があり、大勢の観客を入れ、旅芝居の一座や、踊りの発表会などに使われていたのが、愛宕にあった常盤座(後の第一常磐座)である。その後、大正時代に入ってから活動写真の名で映画が全国的に流行しはじめた大正初期に、常盤座は映画の興業を開始した。当時の作品は音声が入っていない無声映画だったため、解説と進行のため映画館には専属の「弁士」というナレーターがいた。
弁士は映画によって一人のときもあれば二人のときもあった。そのため客入りは作品、物語、主演俳優はもちろん、弁士に左右されることも多かった。大正6年(1917)になると常盤座から独立して宮古館が新川町に開館。宮古館は当初日活映画を、その後大映、新東宝系列の映画館として人気を集めた。当時の映画館はほとんどが桟敷(さじき)席、升席で休憩時間に升の粋を売子がせんべいなどを売って歩いた。また、映画上映もタ方からはじまり上映前に表に面した映画館のバルコニーなどで楽隊の演奏なども行っていたという。
昭和に入ってくると、当時鍬ヶ崎にあった有楽座という芝居小屋を末広町に移転改名し、昭和7年(1932)第二常盤座が開館する。当時付近は料亭が一軒あるだけの田圃の真中で、1階がイス席、2階がイスと畳で収容人員は567名であった。第二常盤座が開館して間もなく、映画は無声からトーキーの時代へと移行する。映画はますます人々の心をつかみ娯楽のメインになってゆく。宮古館と第二常盤座はライバル館として興業を展開する。ヒット映画を片方が上映すれば、 一方は閑散であった。楽隊を使った宣伝も激しくなり、映写技師までがかり出されてビラを配ってあるいた。戦後になって.映画ほ白黒から一部カラーへ、のちにオールカラー天然色へと移行する。日本の映画産業もピークに達し、松竹、東宝、大映からは数多くのスター俳優が生まれてゆく。
昭和30年代になると、第二常盤座から、洋画だけを専門に上映する、国際劇場が分離開館、その後、鍬ヶ崎大洋劇場、リラホール、東映映画戯場が相次いで開館する。時代劇、恋愛もの、喜劇、アクション、怪獣……などなど人口6万弱の町に7軒の映画館がひしめき、まさに昭和30年代は映画館の黄金時代であった。そして、昭和40年代に入ってリラホールが、第一常盤座が、さらに、41年(1966)に大洋、43年(1968)に東映、48年(1973)に宮古館、57年(1982)に弟二常盤座、そして平成3年(1991)に国際が閉館した。

タウン誌の原型。宮古映画新聞

昭和30年代の映画の黄金期を象徴するように、当時の宮古では「宮古映画新聞」というタブロイド判の新聞が発行されていた。この新聞は映画に関する情報はもちろんのこと、普通の新聞と同じ一般記事、文芸なとで構成されており、宮古におけるタウン誌の原形ともいえるものだ。詳しい創刊年月日は不明だが、現在残っている昭和33年(1958)から40年(1965)まで発行されていた新聞から推測すると創刊は32年(1957)頃と推測される。編集人は後の『古城物語』の著者で郷土史研究家の田村忠博氏で、当時、田町(現・末広町)に編集部があった。(その後、レストラングリル白十字内へ移動)宮古映画新聞の紙面は2ページから4べージで毎週火曜日の発行(39年1月18日号から水曜日発行)、印刷は当初イトウヤ印刷所(現ショウジ印刷)、のちに(株)文化印刷で行っている。サイズA3判、36年(1961)頃にはタブロイド判に変わっている。
内容は一般記事のほか、今週の映画案内をはじめとし、各界の代表者との映直対談、各映画館の広告なと.昭和39年(1964)版には宮古市内の小中学生映画感想文の入選作も掲載されている。それらは「わんぱく天使」「海のおとうさん」「世紀の若戸大橋」「石ころの歌」「末は博士か大臣か」などの子供向けの作品で、これらが当時の映画教室で上映されていた。
これら紙面を通して見るとその時代の映画や世相が伝わるほか、当時の映画館の料金(50円から95円で、床屋の料金と同じく推移したらしい)なともわかる。2本立、3本立、あるいは4本立と各館が競っていたり、特別優待、特別割引などで入場者の確保に努めている。また、当時、宮古市では全国から集まって来る約500隻のサンマ船団を対象にした「さんま祭り」という歓迎イベントをが行われており、全市挙げての歓迎祭りを行っている。その中でも2日間にわたって映画が野外で上映されていることが、宮古映画新聞・昭和33年(1958)9月9日号で紹介されている。
宮古映画新聞がいつ廃刊になったか定かではないがこの新聞が当時の文化としての宮古におけるミニコミ紙(誌)のさきがけであったことは間連いないだろう。

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/Su9pt

表示
個人用ツール