太田和男
東京都副知事を務めた宮古人~東京オリンピックの成功に尽力~
昭和39年(1964)アジア地域で初めて開催された東京オリンピック。戦後の日本が高度成長に突入していく激動の時代。そのオリンピックの成功の陰にこの人ありと言われたのが、前年まで、東京都副知事を務めていた太田和男である。
太田は、山田町生まれの宮古育ち。山田小学校校長の父が鍬ヶ崎小学校校長として転勤となった3歳の頃から鍬ヶ崎の町で育った。大正年間に岩手県立水産学校(岩水・現宮古水産高校)に入学。多感な青春期を過ごし大正13年に卒業した。その後、向学心に燃えて上京し、日本大学法学部に入学。昭和6年3月に政治学科を卒業。その後、一旦郷里に戻り宮古信用金庫に勤務するが、再度上京し、東京市に奉職する。
昭和7年(1932)11月、保健局衛生課を皮切りに各部署に配置されていく。以後、行政手腕を発揮し、戦前、戦中、戦後と大変革の時代を都政の中で活躍した。特にも戦後は、安井、東、美濃部、鈴木と4代の知事のもとで敏腕を振い、希有な逸材として政財界に高く評価された。
都財政局主計部長、財務局長を務めた後、昭和35年(1960)6月に副知事に就任。ニ期目の同38年(1963)に引き続き副知事を要請されたが、後進に道を譲り都政を退いた。本庁行政部長時代は、米軍に接収されていた小笠原諸島の返還に奮闘。小笠原協会を設立し、島の救援を行い「小笠原の父」とも呼ばれた。
そして東京オリンピックでは、困難と言われた道路、宿泊施設、上下水道などの整備建設を担当。期限までに見事完成させた。
都政を退いた後も、各種団体で活躍し首都躍進に尽力した。在京岩水同窓会も発起人の一人となり同窓生の絆を深めた。本誌創始者の駒井雅三(歌人、元岩水同窓会長)とは同級生で刎頸の友。雅三の永眠に対しては病状の身ながら次の歌を彼に贈った。
海猫も啼きに鳴け鳴けふる里の
友の歌碑立つ浜なすの磯
昭和53年(1978)11月、勲ニ等瑞宝章受賞。昭和63年(1988)1月30日、享年81歳で亡くなった。その偉大なる足跡は首都東京の中に今なお燦然と輝いている。