大黒様
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福徳の民間信仰に埋没した元破壊神
庶民の間で古くから信仰されてきた民間信仰の神々は豊穣と繁栄を約束する善神と、病気や凶作を象徴する悪神に分類される。前者はその家を代々護る先祖霊であり「和魂(ニギミタマ)」とされ、後者はもののけや祟り、怨霊などの「荒魂(アラミタマ)」としての原型をもっている。
荒魂は神と位置づけられているにもかかわらずその家に厄災をもたらすもので、神々の底辺に位置する疫病神、厄病神であり俗に言う貧乏神の形でイメージされる。これに対して先祖霊や氏神などのディフェンス側の神々が配置されるわけだが、人々はそれらの悪神侵入に対しての防御フォーメーションに加えて、豊穣や商売繁盛を呼び込む「福神」を信仰してより幸せな環境を願ってきた。福神は厄災を除去あるいは防御し福徳をもたらすもので、江戸時代後期に発生した七福神などは最たるもので現在も根強く信仰されている。
富と繁栄、そして人の永遠の願いでもある長寿を司どる神々の集合体である七福神だが、メンバーの出所は様々であり、仏教、神道、道教が入り交じった複合神といえる。その中で歴史的にも古いのが「恵比寿」「大黒」だ。この神は江戸期に七福神として習合される以前の室町時代から「二福神」として信仰媒体となっていた。大黒は本来、大黒天であり天台宗の寺院において厨房・竈の神として伝来し、室町時代に神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)と混同され大きな袋(嚢)を背に、円満福相、矮身短躯の神像姿が定着して江戸時代には七福神のメンバーに加わることになる。
大黒は天台宗の厨房関係の守り神として大陸から伝来したが、その前身となっているのはインドの破壊神「シヴァ神」であり、全てを破壊し人を喰らう恐ろしい姿で表現される。シヴァ神は台風やハリケーンなどの自然の猛威を象徴した仏教以外の神だがこれが、仏教に取り込まれ「天部」の神々として配置され中国に流れ、それが日本へ渡来したものだ。そのため大国主命と習合する以前の大黒の神像は円満福相ではなく三面六臂などの憤怒相のものもある。このような背景に大黒とセットされる「恵比寿」も同様で、神が産んだという異形の子で、黄泉を象徴する恵比寿は海に流され正体不明の神として漂着するという経緯をもっている。
大黒様の意匠・食い過ぎの大黒様を助けた二股大根
色々な形で展開される福神・大黒様の意匠はそれを信仰する人々の生業によって自在に変化した。商家なら大福帳にそろばん、農家なら米俵に打ち出の小槌などだ。そんな中に大根を抱えた大黒様の意匠がある。
これは俗説によると、餅が大好きな大黒様はとある家で餅をたらふく御馳走になったはいいが食い過ぎで胃もたれして難儀していたところ、帰り道に小川の水で収穫した大根を洗っている娘に遭遇した。大黒様は「これこれ、娘さん、胸がつかえて難儀しておる、その大根を一本譲ってくれないものか」と娘に懇願したところ「私は使われ者ですから、私の一存で売り物を差し上げるわけにはいきませんが、この売り物にならない二股大根なら差し上げましょう」と、娘は根元で二股になった大根を差し出したところ、大黒様はそれを喜んで食べたという。この俗説から大黒様と二股大根の意匠が発生したという。
大黒様の年取り・最後のマメは労働の証、手マメと足マメ
大黒様の年取りは12月9日だ。この日は床の間に炒った大豆や、味噌を塗った豆腐田楽を供える。昔から恵比寿様と並んで大黒様は台所の守護神であり福神として信仰され、何故か「豆」が好物ということになっていて、この日は大豆にちなんだ料理を作って供える。また、二股大根も畑作の豊作祈願として供えられる場合もあるようだ。ある説によると、大黒様に供える大豆を炒る時は皆で騒ぎながら炒ったという。これは大黒様が耳が遠いという俗説からだという。
大黒様に供える豆を使った料理は7種類ということになっているが、実際には豆腐、納豆、炒り豆、黄粉(きなこ)などで5品を供え、あとの2種類は「手マメ、足マメ」で「まめに働く」ということなのだという。近年は12月の各神様の年取りも簡略化され、年の瀬の行事として大黒様の年取りをする農家も少なくなった。
大黒様は新年の来訪神でもあった
大黒舞は初春に訪れる祝福芸で、家々を祝福して歩いた門付け芸の一種だった。頭に大黒頭巾を被り、右手に打ち出の小槌を持って左手には扇子か祝儀を入れる嚢(袋)などを担いで唄い踊った。1人の時も、2、3人の時もあった。
こうした門付け芸に起源をもつ唄が、祝いの席や酒宴の席でも、芸達者たちによっていわゆる、大国主命スタイルで手振り身振りよろしく唄い踊られ、座を盛り上げた。楽器は、宴席では太鼓または小皿などが用いられた。
大黒舞唄は「秋田大黒舞」の「あけの方から 福大黒 舞い込んだナー サーサ 舞い込んだナー 舞い込んだナー」という歌詞がポピュラーだが、宮古地方での大黒舞唄は地域によって多少歌詞が異なるものもある。「ハァ舞い込んだァ ハァ舞い込んだァ~」という出だしのものや、かつては「見いさいナー、見いさいナー ハァ~」というものもあった。この唄は、小正月の15日の夜、子どもたちが母や姉の着物を着て、肩に紙で作った魚、臼、小判などを飾った笹を担いで各戸を訪ね、「見いさいナー、見いさいナー」と唄って祝福して歩いたという。
大黒舞・俗謡とし伝承される豊穣の舞
古来より、遊里・鍬ヶ崎で踊られる大黒舞には、後半からすりこぎを男根に見立てて踊る「すりこぎ舞」がセットされており、そのユーモラスな手つきと腰つきでお座敷は大いに盛り上がったという。大黒舞にすりこぎを使ったすりこぎ舞が連結しているのは、リズムや歌詞が移行しやすい事もあるが、古くからの信仰形態において大黒様が稲作において豊穣の神である事、何より男根が子孫繁栄の象徴であったからだ。平地の水田稲作民にとって人の出産は稲の生育に結びつくという農耕思想が伝承されており、大黒をはじめ田の神は農耕神であり同時に性の神である必要があったからであろう。
民間信仰の中では神や仏も融合した独特の世界観があるため信仰媒体やその形態をひとつの枠で区切ることはできない。人々はその時代、時代で様々な宗教の中に身を置き、己を幸福に導くとされるあらゆる神仏を拝み信仰してきた。それら福神は神像を安置して拝み奉るという手法から、軸、御札を貼ったりする方法、石碑や稲荷神社のように御社を建立する方法まで様々だ。そんな福神を導く方法の中に厄災を逃れるための呪術的な占いや舞い込みがある。これらは陰陽師や宿曜師(すくようじ)などの呪術者により様々な宗教の中に取り込まれたのち、それらの下部組織により日本中に広がり江戸時代になると地方の山伏らにより神楽などに変化し勧善懲悪の招福芸能へと変化した。宮古地方に中世の時代から伝わる黒森神楽にも「七福神」という演目が存在し神楽も庶民生活の中の招福の舞であることがわかる。
特殊な生業で定住せずに全国を渡り歩く漂泊の宗教者の中にも厄災を封じたり、幸運を呼び込む力があると信じられており、年末から正月にかけてやってくる大黒舞、万歳、獅子舞、猿回しなどは幸運をもたらす異界からの来訪神とされた。これらが時代と共に庶民生活に溶け込み婚礼や棟上げなどの席で踊られ舞われるようになり、おめでたい「大黒舞」、豊穣の象徴としてすりこぎを男根に見立てて踊る「すりこぎ舞」、「おっつけ舞」などに姿を変え現在も芸能の形でひっそりと伝承されている。