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大越作右衛門

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  • おおこしさくうえもん【分類・漁業家】
  • 江戸~明治:天保12年~明治30年(1841~1897)

宮古湾における近代網漁の先駆者

宮古湾において効率の良い漁網、多額の費用と人数を必要とする従来の建網より安く仕上がり、人手のかからないしかも漁獲の多い優れた網、その網の夢を追い求め続け、やがて巾着網と呼ばれる網を開発したのが、鍬ヶ崎生まれの大越作右エ門だ。
大越作右衛門は天保12年(1841)に地曳網と網大工の旧家に生まれた。子どもの頃から父・庄兵衛の仕事を見ていたので青年に達した時はすでに漁網の研究にとりつかれていた。
作右衛門は最初、安政年間に一種の漁網を発明し鮭叩網と名づけ、世に出した。海中で鮭を漁獲するのに適し、明治5、6年頃(1872~3)から宮古湾内に普及した。失敗に失敗を重ねた果ての成功で、その後は小舌網の改良に乗り出したり、鮪釣具を発明するなど、その創作意欲は尽きず漁業に大きく寄与していった。
明治14年頃、アメリカに袋状の「ボースイセン」という網があることを知り、長男俊介を助手にその網の模造に取りかかった。それまでの地曳網、鮭叩網では、沖合を回遊する魚群を捕獲することは不可能であり、それを解決するための研究であった。もちろん見てきた人がいるわけでなく文献もない。袋状の網があるという話だけで、模型を作り、壊してはまた作り直し、納得した形ができあがれば、実際の網で実験、欠点を修正するという繰り返しだった。その一方では春夏秋冬回遊する魚の習性と網との関係を調べ、改良に改良を重ね何年もの歳月や資産を費やした。
明治23(1890)年10月、研究を始めてから17年、袋状の網を知ってから10年、積み重ねられた研究にやっと光が見えはじめた。名づけられたその網の名は「巾着網」。その網に次から次へと鮭が入った。実験の結果は成功だった。これにより作右衛門は、多年の失敗を挽回し、大漁の水揚げに世間の人々は驚異の眼を見張った。その後明治24、25年(1891~92)と大漁の水揚げによって、この巾着網の効果は遠く全国へと知れ渡り、同時に作右衛門の名も称賛の的となった。その後、沿岸漁業から遠洋漁業へと着目するが、明治30年(1897)9月、57歳でこの世を去った。

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