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堀田熊次郎

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  • ほったくまじろう【分類・水産研究家】
  • 明治~昭和:明治16年~昭和14年(1883~1939)

近代漁業の発展に貢献。多くの水産技士を育成

堀田熊次郎は明治16年、新川町で建網を営む漁家の長男・嘉吉として生まれた。学校を卒業と同時に新しい漁業技術を学ぶべく、単身東京の東京水産講習所修本科製造科へ入学、卒業後高知県水産試験場技手となった。後明治40年、兵役を務め帰省した熊次郎は、この頃、岩手県立水産学校教諭、岩手県水産試験場技手を務めている。明治44年、妻・ミトを娶り、1男3女をもうけたが、家業である漁業の近代化を提案し、宮古を含む三陸の水産資源の研究と、新たな加工技術開発に没頭してゆく。
後、熊次郎は自宅を改築工事し、現在のレストランほりたの場所に「堀田海洋研究所」を設立する。この建物は研究室に教室等を備えた私設の学校のような機構をもっており、水産加工技術に没頭する熊次郎の元に多くの研究生が集まったという。この研究所で熊次郎は現在の鮭ふ化事業の基礎にもなった鮭人工ふ化事業の研究をはじめ、当時三陸では食用としなかったサンマに関する『サンマ食用法』、漁獲率を効率的に向上させる『定置網改良法』などの著書も執筆している。しかし、この当時とすれば画期的な堀田海洋研究所に関する資料や研究データは熊次郎没後、昭和23年のアイオン台風等による二度の水害により水没、同時に建物としての研究所に関する記録も残されていない。
晩年は、下閉伊郡水産会長、岩手県水産会副会長、帝国水産会議員、宮古町教育推奨会会長等を務め宮古の水産界発展のため尽力した。そんな熊次郎であったが、昭和14年11月、当時の水産学校で行った講演の最中に倒れ、そのまま息をひきとった。脳溢血であった。

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