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只野凡児

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浅草の人気喜劇役者からキャバレー経営に転身只野凡児と斉藤トミ子

 本誌創始者・駒井雅三が昭和41年に発行した『伸びゆく宮古~アイオン台風から』に掲載されている企業の中にキャバレー美鈴がある。キャバレー美鈴はその前身をクラブ美鈴とし、終戦後の宮古において進駐軍を受け入れた風俗店であり同時に、洋装のホステスが接待する形式の高級クラブのさきがけでもあった。

 このキャバレーを経営していたのは戦前から戦後にかけて喜劇役者として活躍し俳優として映画にも出演している只野凡児(芸名)こと、斉藤仁康氏であった。斉藤氏は静岡県出身で地元の高等科を卒業後、浅草大衆演芸で人気を博していた酒井淳之助の一座に入り、同氏が経営する俳優学校に学んだ。その頃、斉藤氏の顔が朝日新聞に連載し人気を博していた麻生豊の4コマ漫画『只野凡児・人生勉強』のキャラクターに似ているというので、只野凡児の芸名を許され24歳で自らが座長となる一座を結成。その後、一座は解散となるが浅草から名古屋、京都の演芸場へ移り活躍していた。

 時を同じくして斉藤氏の妻であり専務取締役としてキャバレー美鈴を経営する、斉藤トミ子氏(旧姓・鈴木)は、宮古高女を卒業すると浅草歌劇団で活躍していた林正夫一座で修行し、浅草オペラ座、新宿コマ劇場を経て、大阪タッピングドリーマーズ研究所に入り歌とタップを学んでいた。その頃、鈴木トミ子氏は京都新京極花月劇場の興行に出演することになる。その興行に同じく京都ムーランルージュでステージに立っていた只野凡児も特別出演し二人は運命の出会いをすることになる。凡児こと斉藤氏はマネージャーを通じ結婚を申し込み二人は劇団仲間に祝福され結婚し新しく「只野凡児軽笑隊」の名で一座を起ち上げ、支那事変の中、支那、満州で皇軍慰問の旅を続けた。戦局が悪化する中、南満州の慰問から帰ると斉藤氏の故郷静岡も戦火で焼け出され、東京も焼け野原と化していた。一座のメンバーたちも帰る家もなかったので妻の故郷である宮古に一座の七人を連れて帰ってきた。その後足立ベニヤ、海員学校、花巻療養所などを慰問でまわり終戦を迎えた。終戦間もなく上京し後援者を得て新たに「若草劇団」を結成。このとき劇団の文芸部をのちに脚本家・作詞家として大成した川内康範が担当している。戦後経済の混乱と新円切り替えでスポンサーを失いながら劇団の規模を縮小しコミックショーを中心に進駐軍の慰問を続けた。

 この時期、斉藤氏はこのまま舞台を続けるかどうかを迷ったが、思案の末舞台を捨て二人人の子供と共に再び宮古へ戻り昭和26年にクラブ美鈴を創業、同38年には有限会社に改変しキャバレー美鈴として宮古の夜の社交界に君臨した。その間昭和32年には芸能赤十字団から、長年にわたり病院を慰問して歩いた只野凡児に、王冠の額の名誉が贈られた。晩年は岩手県ライオンズクラブ会員、岩手県社交事業環境衛生同業組合副理事長、全国社交事業協会運営委員、宮古市観光協会理事を歴任した。

※本ページのテキスト、写真と説明は『伸びゆく宮古』に掲載されていたものを再編集しています

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