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三社自動車

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宮古における地方交通の先駆者

公共交通の先駆者であった三社自動車は宮古自動車、刈屋自動車、盛宮自動車の三つの会社が合併して発足した自動車会社だ。この背景には自動車交通運輸業が許認可制となり、緊迫する世界情勢からガソリンが統制されたため政府が企業合併を進めたものだ。昭和に入り道路交通網の整備とともに自動車による大量輸送の時代を迎えていた。この流れを実業家や財閥は見のがさず宮古下閉伊にも多くの自動車会社が設立され地方交通の先駆者たちは新たな時代を切り拓いてゆくのだった。

乗合馬車から自動車へ。閉伊街道の交通革命

日本における乗合自動車交通の発生は明治36年に大阪で開かれた内国勧業博覧会がきっかけとなり、それまでの陸上交通を担っていた馬車や人力車から乗合自動車への移行がはじまった。この頃の宮古町では公共交通は皆無であり、馬や徒歩の移動が普通だった。そんななか、明治34年に鍬ヶ崎町の越後屋がこの地方初の人力車業を開業、そして、明治37年8月、悲願であった県都交通の第一歩となる盛宮乗合馬車が開業した。しかし、開業からわずか1ヶ月で馬車は梁川村川目で転落し重軽傷者4名を出した。宮古~盛岡を結ぶ閉伊街道は難所が多く転落事故も相次いだが、先駆者たちの努力と難所整備により大正2年の自動車による盛宮乗合自動車の開業へとつながってゆく。そして、この自動車路線が後の昭和9年の鉄路・山田線開業へと発展してゆくのだった。

熾烈な運行競争の末に統合。三社自動車の誕生

 盛宮自動車の宮古~盛岡のバス運行に続き、刈屋自動車、宮古自動車が運行を開始し、その100キロの道を舞台に三社の熾烈な競争が展開された。しかし、各社とも共倒れを防ぐために合併を余儀なくされた。三社自動車としての設立は資料がなく詳細は不明だが、昭和初期には誕生したと思われる。今回の特集における写真の数々はその三社が合併した当時のものである。
 というのも、前述したように大正13年には登録業者が39社にもなり、同じ路線に複数業者が進出して過当競争になっていた。こうした時代背景のもと、当時の鉄道省は昭和6年(1931)に自動車交通事業法を公布、2年後の同8年から施行した。これによりバス事業の一路線一営業主義が図られ、経営を度外視した過度の競争はなくなり、業界は自主的な統合へと進んでいった。三社自動車はこうして誕生していったが、これも後に岩手県北自動車へと統合されていった。  

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