とどヶ崎灯台
目次 |
海を守って一世紀
明治35年3月1日、東経142度4分29秒、本州最東端の地にある重茂半島のとどヶ崎に灯台が設置点灯された。この灯台は当時、本州東岸には北は尻屋崎灯台、南は金華山灯台しか整備されていなかったことから、暗黒の洋上を行き交う船舶が必要とする重要な灯台として設置された。以来、数々の歴史を刻み一世紀以上を超えて現在に至る。灯台は現在第二管区海上保安部岩手航路標識事務所による遠隔操作の無人管理だが、以前は灯台守と呼ばれる職員が駐在して灯台を管理していた。そんな灯台守の手記が脚本化され映画となったのが「喜びも悲しみも幾歳月」(昭和32年・松竹作品)である。この映画の原作となった手記はとどヶ崎灯台の灯台守として配属された夫とともにとどヶ崎で過ごした田中キヨさんが執筆したものだ。
映画「喜びも悲しみも幾年月」原作者・田中績・きよ夫妻
灯台守夫婦の半生を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)の下地となったのが、とどヶ崎灯台に勤務していた田中績さんの妻きよさんが、当時の婦人雑誌「婦人倶楽部」(1956年8月号)に寄稿した手記「海を守る夫ともに二十年」と題するものだった。これが当時44歳の木下恵介監督の目に止まり、即映画化の案が閃いたという。映画は佐田啓二、高峰秀子の主演で大ヒット。感動の名作として一世を風びした。
田中さんがとどヶ崎灯台に勤務したのは1933年から40年と1957年から69年までの二度の19年間。灯台職員となって最初の勤務地がこことどヶ崎で、まさに灯台守としてここで暮らしていた。二度目の勤務は所長として赴任。この時は、家族は市内で過ごし、田中さんら職員は一週間交代で灯台に勤務した。灯台守の生活は転勤が常。とどヶ崎を皮切りに田中さんは、樺太や宗谷岬から東シナ海海上の女島、都井岬、塩屋崎など全国を転々とした。1970年に績さんが退官後は、子供たちも自立したことから、二人は映画の舞台ともなった塩屋埼灯台の近く、福島県いわき市に終の住居を求めて余生を過ごした。その後、妻のきよさんが99年5月10日に87歳で亡くなり、績さんが今年、とどヶ崎灯台100周年を目の前にしながら3月20日、92歳で亡くなった。
いろんな人々のドラマを刻み、海の安全を守り続けて100周年となったとどヶ崎灯台。今では無人化、自動化され、そこにはもはや田中さん夫妻のような灯台守の姿はない。
映画「喜びも悲しみも幾歳月」
俺ら岬の
灯台守は
妻と二人で
沖行く船の
無事を祈って
灯をかざす
灯をかざす
東経142度4分29秒。本州最東端の地にあるとどヶ崎灯台。明治35年3月に設置点灯され、海で働く人々の尊い生命と財産を守るため、光や音、電波を利用し、海の道しるべとして1世紀以上もその役割を果たしている。灯台にはかつて灯台守と呼ばれる職員たちが、そこで常駐し暮らしていた。特に人里離れた灯台での暮らしは多くの不便と困難があった。しかし灯台守たちは海の安全を守る使命に燃えて生活していた。そんな灯台守夫婦の姿を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」は昭和32年(1957)に上映された。木下恵介監督、佐田啓二、高峰秀子主演で当時大ヒット。感動の名作として一世を風びし、冒頭の歌詞はこの映画の主題歌で今でも歌い継がれている。この映画は当時、とどヶ崎灯台に勤務していた田中績さんの妻きよさんの手記から生まれたものだ。映画は女島灯台や観音崎灯台が舞台として登場してくるが、原作の舞台の始まりはこのとどヶ崎灯台なのである。
灯台守の夫・績さんと暮らす妻のきよさんは塩屋崎灯台時代、当時の婦人雑誌「婦人倶楽部」(昭和31年8月号)に灯台守の体験を綴ったエッセイ「海を守る夫とともに二十年」を寄稿した。とどヶ崎灯台からの灯台守の生活を世に発表した。これが当時44歳の木下恵介監督の目に止まり、心打たれた監督はすぐ映画の脚本を書いた。映画は2時間40分にも及ぶ長編だった。灯台を守り家庭を育むある家族の必死に生きる姿を描いた。昭和初期から終戦へかけて激動する25年間を背景に、辺境の地で助け合って生きる夫婦の喜びと悲しみの歴史が刻まれ、互いを見守り生きる夫婦の姿が多くの感動を呼んだ。田中さんがとどヶ崎灯台に勤務したのは昭和8年(1933)から15年(1940)と、昭和32年(1957)から44年(1969)の二度の19年間。灯台職員として最初の勤務地がこことどヶ崎。不便極まりない地で灯台守夫婦の一歩をスタートさせた。二度目の勤務は所長として赴任。この時は家族は宮古市内で暮らし、田中さんら職員は一週間交代で灯台に勤務した。映画でも描かれているように灯台守の生活は転勤が常だ。とどヶ崎を皮切りに田中さんは樺太や宗谷岬、東シナ海の女島、都井岬、塩屋崎など全国の灯台を渡り歩いた。昭和45年(1970)に績さんは勝浦灯台で定年を迎えた。子どもたちも自立していることから二人は映画の舞台ともなった塩屋崎灯台の近く、福島県いわき市に終の住居を求めて余生を過ごした。妻のきよさんは平成11年(1999)5月10日、87歳で亡くなった。績さんは平成14年(2002)3月20日、92歳で亡くなった。績さんが亡くなったこの年は二人の生活をスタートさせたとどヶ崎灯台が100周年を迎えた記念すべき年だったが、残念ながら6月に行われた式典にその姿を見ることはなかった。戦前戦後と激動の時代を生きた田中夫妻。灯台を守り家族を支えた日々の生活はまさに「喜びも悲しみも幾歳月」だったに違いない。海の安全を守り続けて1世紀を超えたとどヶ崎灯台は平成8年(1996)に無人化された。
映画・喜びも悲しみも幾歳月・あらすじ
昭和7年、新婚早々の灯台守夫婦有沢四郎ときよ子は観音崎灯台に赴任した。その後も転勤を繰り返し、北海道の石狩灯台で、雪野、光太郎の二人の子を授かる。その後、戦争で多くの同僚を失うなど苦しい時期もあったが、後輩の野津や妻の真砂子に励まされながら勤務を続ける。ところが、男木島灯台勤務の時、光太郎は不良と喧嘩をして亡くなってしまう。その後、御前崎灯台の台長として赴任する途中で雪野と知り合いの息子進吾との結婚話がまとまる。進吾の勤務地カイロに向かう船に向かって、二人は灯をともす。
映画・喜びも悲しみも幾歳月データ
北は北海道・納沙布岬から、南は五島列島・女島まで全国15ヶ所をカバーする日本縦断ロケを敢行した灯台守夫婦の25年にわたる年代記。芸術祭賞受賞。また現代の灯台守夫婦とその周辺を描いた松竹大船撮影所50周年記念映画の「新喜びも悲しみも幾歳月」も製作されている。同名の主題歌は若山彰が歌い大ヒット。今でも懐メロとして歌われている。作詞・作曲は木下惠介の実弟である木下忠治が担当した。
DVD情報
タイトル 喜びも悲しみも幾歳月
製作 1957年
監督 木下惠介
出演 高峰秀子/佐田啓二/中村賀津雄/有沢正子/田村高広
価格 2400円(税込)
発売元 松竹ホームビデオ
販売元 松竹株式会社
品番 DA-1939
収録時間 160分
画面サイズ4:3
色 カラー
音声 日本語 DD(モノラル)
とどヶ崎灯台誕生の背景
明治2年1月に、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯を開始して以来、明治の初期には東北の太平洋岸に尻屋埼灯台、金華山灯台が相次いで建設された。
明治24(1918)年以降、35年間にわたり灯台の建設は、創業期の建設方針を踏襲して沿岸灯台の建設に主目標がおかれ、主要航路の灯台から逐次整備が進められた。
明治32年6月に両灯台のほぼ中間地点に位置し、本州最東端であるとどヶ崎に灯台の建設がはじまり、明治35年3月に初点灯を迎えた。
とどヶ崎の名前の由来は、海獣のトドが群集する所、または荒波が激しく轟く音に由来していると言われている。
ひとくちMEMO三陸沿岸の灯台
三陸沿岸に岬や防波堤には多数の灯台がある。それらは実際に光信号を出す灯台から電波や音によって位置を知らせるものなど様々な灯台がある。
- 第二管区海上保安部 岩手航路標識事務所管内管理データ
灯台 69基
灯標 3基
導灯 1基
無線方位信号 2基
霧信号 1基
無線中継所 7ヵ所
灯台の沿革
明治35年3月1日…点灯(乙式石油蒸発白熱灯)。工事費5万4055円(現在の10数億円相当)。霧信号所業務開始。
明治40年10月14日…副灯点灯(南方4キロの大根礁を照らす)
昭和7年2月11日…無線方位信号所業務開始
昭和15年5月1日…正規気象観測業務開始
昭和20年7月…戦災(艦砲射撃)被災
昭和23年5月12日…無線方位信号所業務再開
昭和25年6月23日…戦災復旧(現在の灯台となる)霧信号所モーターサイレンに変更復旧
昭和26年10月30日…暴風標識業務開始
昭和29年2月1日…無線方位信号所、船舶気象通報業務開始
昭和34年5月31日…暴風標識業務廃止
昭和37年3月28日…霧信号所機械改良
昭和41年4月1日…宮古航路標識事務所に集約(滞在交代での管理となる)
昭和49年6月1日…正規気象観測業務廃止
平成4年10月31日…無線方位信号所廃止
平成8年4月1日…滞在による管理を廃止(巡回による保守となる)
平成8年5月11日…岩手航路標識事務所に集約
平成9年12月9日…灯台機械改良(メタルハライド電球化)、灯質の変更(毎15秒に1閃)
平成14年3月1日…点灯100周年
平成14年4月1日…実効光度採用による光度変更(53万カンデラ)
ウォーキングガイド
とどヶ崎灯台へは、重茂・姉吉漁港からの遊歩道を行く。行程は片道約3キロ、約1時間とされるが、登り傾斜が40度ほどの急坂もあり、アップダウンの連続となる。遊歩道の最初のアプローチは以前まで心臓破りの階段だったが、近年整備されるとともに歩きやすいアスファルトになっている。それでも姉吉漁港の岬をかわすあたりからは灌木の中を行く土の道となる。ここからはアプローチで苦しめられたような急坂はなくなり、ゆったりと自然を散策しながら歩くことができる。また、灯台までの道は一本道なので迷うことはない。ただし、朝日を見るため夜に歩く時はそれなりの注意と装備が必要だ。
」
林の間からは時折エメラルドグリーンの海と白い波が見え隠れするが、高い断崖になっているせいか波の砕ける音は耳を澄まさないと聞こえてこない。途中、岬の主峰となっているとど山(465)の尾根から流れる礫の沢が数カ所あるが水は望めない。また、これらの沢は大雨が降ると大量の礫を押し流すらしく遊歩道が分断されている場所もある。
灯台下には東屋がありそこから太平洋の水平線が望める。灯台のすぐ下にはV字の巨大なクレバスがあり覗き込むと吸い込まれそうな迫力だ。灯台から岩場を南へ200メートルほどゆくと、本州最東端の碑がある。断崖の先端までゆくと足下の断崖にうち寄せる波と、南には船越半島の霞露岳(504)が見える。また逆に灯台からハイマツの岩場を北へ歩くと重茂半島の複雑な岩礁が見える。
岬は細長い入り江を囲むように伸びており、この入り江の最深部が昔灯台に物資を運んだ船着き場だ。岬先端に比べ波静かではあるが独特の重圧感がただよっている。昭和60年代、この小さな浜辺で俳優・小林旭が自らメガホンを取った映画「春来る鬼」のロケが行われた。湾に降りてここから遊歩道を北へ向かえば約6キロの行程で与奈地区に着く。