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関連木運蔵

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運蔵は六尺として藩に勤めたのち、何石かの石高をもらい後世は故郷の牛伏で過ごし、元禄5年(1693)に亡くなった。戒名は「蔵庵道正信士」で同地区に墓碑が残る。<br>
 
運蔵は六尺として藩に勤めたのち、何石かの石高をもらい後世は故郷の牛伏で過ごし、元禄5年(1693)に亡くなった。戒名は「蔵庵道正信士」で同地区に墓碑が残る。<br>
  
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2012年12月26日 (水) 12:14時点における最新版

[編集] 閉伊通り出身の南部藩力士

関連木運蔵(せきれぎうぞう、うすれぎうんぞう とも伝承する)は牛伏出身の力士で、やはり南部藩六尺(殿様の駕籠を担ぐ)として召し抱えられた。力士としての詳細は不明だが逸話は多く、運蔵の足袋には小麦や小豆など3升も入るほどの特大のものだったという逸話も残る。殿様の駕籠かきをしていた時、盛岡の中津川に鮭が上がって卵を産んでいた。殿様がそれを見たがっていると思って、運蔵は駕籠の片一方を持って、橋の上から川の真下に差し出して見せてやろうとした。悪い気持ちからではなかったが、殿様を川に流そうとしたとして、お咎めを受けたという。また橋のない川で、運蔵が橋になり殿様を渡したという話もある。
運蔵は六尺として藩に勤めたのち、何石かの石高をもらい後世は故郷の牛伏で過ごし、元禄5年(1693)に亡くなった。戒名は「蔵庵道正信士」で同地区に墓碑が残る。

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