Miyape ban 01.jpg

田中敏夫

提供:ミヤペディア
(版間での差分)
移動: 案内, 検索
 
1行: 1行:
 +
=='''星野哲郎の作詞「ひかげ者」でメジャーデビュー地方の大衆音楽作曲家として活躍'''==
 +
 +
 地方における作曲家、大衆音楽の活動を行っていた一人に故田中敏夫がいた。田中は昭和41年(1966)に、クラウンレコードから発売されダニー飯田とパラダイスキングが歌った「ひかげ者」を作曲した人物としても有名である。その曲の作詞は演歌作詞家の第一人者として数え切れないヒット曲を持つ故星野哲郎だった。一地方の音楽愛好家が、大御所である星野哲郎に認められるほど、その音楽性は高いものであった。
 +
 +
 田中は昭和4年(1929)に鍬ヶ崎に生まれた。小さいころ自宅にあったヴァイオリンに興味を持ち、市内のヴァイオリン教室に通ったのが、音楽との出会いだった。戦争で徴兵されるが中島飛行場で終戦を迎えた。郷里に戻ってからは菓子職人として独立した。のちに廃業し知人の誘いもあってベニヤ工場(足立ベニヤ・刈屋)に勤務する。ここでは働く人も多く、福利厚生としての音楽活動も活発だった。久しぶりに音楽に出会えたことから水を得た魚のようにブラスバンドを作ったり、演奏活動で県内も回ったりした。もちろん作曲活動も精力的に行った。
 +
 +
 「ひかげ者」は昭和30年代後半に作った曲だ。宮古出身の歌手・下沢四郎氏に歌わせるために作ったもので、当時、下沢氏が熱海のクラブでこの歌を歌っていた時、星野哲郎が偶然この店に来ていた。「いい歌だ。誰が作ったか教えてほしい」と話したのが田中と星野哲郎をつなぐ接点となった。
 +
 +
=='''『ひかげ者』レコード化へ星野哲郎らクラウン関係者が突然蟇目の社宅を訪問'''==
 +
 +
 昭和39年(1964)、星野氏とクラウンの関係者一行が宮古まで来て、この田中の作った「ひかげ者」を発売する契約を交わした。歌詞は星野哲郎が直し、作曲はたなかとしをの平仮名だった。そしてレコードは昭和41年に発売された。シングルカットで当時の値段で330円。B面は「土曜はきらい」だった。
 +
 +
 以来、田中は作曲家協会の会員として活動するほか、地域におけるさまざまな曲を手掛けていく。各種イベントにおける音頭や記念歌など、その数は50曲を超えた。57歳で仕事を退職したあと、お茶販売業の傍ら田中音楽教室を主宰。カラオケ指導や、自らグループを作りボランティアでの各種施設の慰問活動や作曲活動を行っていたが、平成17年(2005)4月に肺の病気で亡くなった。72歳だった。
 +
 
<gallery widths="250px" heights="250px">
 
<gallery widths="250px" heights="250px">
Image:ひかげ者ジャケ.jpg
+
Image:ひかげ者ジャケ.jpg|ひかげ者のレコードジャケット
Image:ひかげ者歌詞.jpg
+
Image:ひかげ者歌詞.jpg|ひかげ者の歌詞と楽譜。作詞星野哲郎、作曲たなかとしをの名がクレジットされている
 
Image:田中敏夫タイトル.jpg
 
Image:田中敏夫タイトル.jpg
Image:田中敏夫大映スターと.jpg
+
Image:田中敏夫大映スターと.jpg|歌謡ショー打ち上げ後の記念撮影。2列目左はしが田中敏夫氏
Image:田中敏夫晩年.jpg
+
Image:田中敏夫晩年.jpg|晩年の田中敏夫氏(平成4年頃)
 
</gallery>
 
</gallery>
 
{{DEFAULTSORT: たなかとしお}}
 
{{DEFAULTSORT: たなかとしお}}
 
[[Category:宮古人物列伝]]
 
[[Category:宮古人物列伝]]
 
[[Category:美術家・音楽家]]
 
[[Category:美術家・音楽家]]

2012年12月27日 (木) 15:25時点における最新版

[編集] 星野哲郎の作詞「ひかげ者」でメジャーデビュー地方の大衆音楽作曲家として活躍

 地方における作曲家、大衆音楽の活動を行っていた一人に故田中敏夫がいた。田中は昭和41年(1966)に、クラウンレコードから発売されダニー飯田とパラダイスキングが歌った「ひかげ者」を作曲した人物としても有名である。その曲の作詞は演歌作詞家の第一人者として数え切れないヒット曲を持つ故星野哲郎だった。一地方の音楽愛好家が、大御所である星野哲郎に認められるほど、その音楽性は高いものであった。

 田中は昭和4年(1929)に鍬ヶ崎に生まれた。小さいころ自宅にあったヴァイオリンに興味を持ち、市内のヴァイオリン教室に通ったのが、音楽との出会いだった。戦争で徴兵されるが中島飛行場で終戦を迎えた。郷里に戻ってからは菓子職人として独立した。のちに廃業し知人の誘いもあってベニヤ工場(足立ベニヤ・刈屋)に勤務する。ここでは働く人も多く、福利厚生としての音楽活動も活発だった。久しぶりに音楽に出会えたことから水を得た魚のようにブラスバンドを作ったり、演奏活動で県内も回ったりした。もちろん作曲活動も精力的に行った。

 「ひかげ者」は昭和30年代後半に作った曲だ。宮古出身の歌手・下沢四郎氏に歌わせるために作ったもので、当時、下沢氏が熱海のクラブでこの歌を歌っていた時、星野哲郎が偶然この店に来ていた。「いい歌だ。誰が作ったか教えてほしい」と話したのが田中と星野哲郎をつなぐ接点となった。

[編集] 『ひかげ者』レコード化へ星野哲郎らクラウン関係者が突然蟇目の社宅を訪問

 昭和39年(1964)、星野氏とクラウンの関係者一行が宮古まで来て、この田中の作った「ひかげ者」を発売する契約を交わした。歌詞は星野哲郎が直し、作曲はたなかとしをの平仮名だった。そしてレコードは昭和41年に発売された。シングルカットで当時の値段で330円。B面は「土曜はきらい」だった。

 以来、田中は作曲家協会の会員として活動するほか、地域におけるさまざまな曲を手掛けていく。各種イベントにおける音頭や記念歌など、その数は50曲を超えた。57歳で仕事を退職したあと、お茶販売業の傍ら田中音楽教室を主宰。カラオケ指導や、自らグループを作りボランティアでの各種施設の慰問活動や作曲活動を行っていたが、平成17年(2005)4月に肺の病気で亡くなった。72歳だった。

表示
個人用ツール