桐内の砂金(桐内)
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− | 繋集落から小国川に注ぐ桐内沢を西に行くと桐内集落につく。ここはその昔、産金で賑わったところで桐内の名前も、金内が転訛したものだと伝えられる。奥州藤原氏全盛の頃金色堂造立を知った桐内の助右衛門という人は藤原氏に砂金二貫を献上したという。その後永く栄えた助右衛門の家だったが江戸時代には衰退した。 また、桐内は小国大圓寺を開いた月泉良印がこの地で最初に草庵を結んだ所で、今でも寺平の地名と月泉の石碑がある。桐内沢では昭和50年頃まで箱メガネによる砂金取りが行われたが純度は低いという。小国川支流での産金は江戸時代以前は盛んだったが砂金取りや採掘は秘密裏に行われ歴史の表舞台ではなく伝説で語り継がれることが多く詳細は謎のままだ。<br> | + | 繋集落から小国川に注ぐ桐内沢を西に行くと桐内集落につく。ここはその昔、産金で賑わったところで桐内の名前も、金内が転訛したものだと伝えられる。奥州藤原氏全盛の頃金色堂造立を知った桐内の助右衛門という人は藤原氏に砂金二貫を献上したという。その後永く栄えた助右衛門の家だったが江戸時代には衰退した。 |
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+ | また、桐内は小国大圓寺を開いた月泉良印がこの地で最初に草庵を結んだ所で、今でも寺平の地名と月泉の石碑がある。桐内沢では昭和50年頃まで箱メガネによる砂金取りが行われたが純度は低いという。小国川支流での産金は江戸時代以前は盛んだったが砂金取りや採掘は秘密裏に行われ歴史の表舞台ではなく伝説で語り継がれることが多く詳細は謎のままだ。<br> | ||
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2013年2月19日 (火) 15:19時点における版
歴史の底辺を流れる産金の謎桐内の砂金(桐内)
繋集落から小国川に注ぐ桐内沢を西に行くと桐内集落につく。ここはその昔、産金で賑わったところで桐内の名前も、金内が転訛したものだと伝えられる。奥州藤原氏全盛の頃金色堂造立を知った桐内の助右衛門という人は藤原氏に砂金二貫を献上したという。その後永く栄えた助右衛門の家だったが江戸時代には衰退した。
また、桐内は小国大圓寺を開いた月泉良印がこの地で最初に草庵を結んだ所で、今でも寺平の地名と月泉の石碑がある。桐内沢では昭和50年頃まで箱メガネによる砂金取りが行われたが純度は低いという。小国川支流での産金は江戸時代以前は盛んだったが砂金取りや採掘は秘密裏に行われ歴史の表舞台ではなく伝説で語り継がれることが多く詳細は謎のままだ。
地図
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