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宮古空襲

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目次

あの終戦の暑い夏

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宮古からも多くの若者が出征していった

昭和20年8月10日午前8時、宮古に米軍機飛来

昭和20年、夏。太平洋戦争も末期となった。日本全土は連日の空襲によって焦土と化していた。それでも来たるべく本土決戦にそなえての大号令のもと戦わなければなかった。 人々はすべて戦争に狩り出され家庭を守るのは婦人と老人のみ。来る日も訓練に追われ防空壕を掘り勤労奉仕と教練に明け暮れた。夜は空襲警報におののきつつ山中に建てた疎開小屋に避難という状態が続いた。そんな真夏のある日、宮古にも皆が恐れていた米軍機が飛来したのであった。

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空襲による火災に備え防火訓練を繰り返した

終戦間際の本土空襲

 昭和19年6月15日、米軍がマリアナ群島サイパン島に上陸、日本軍との激戦の結果日本陸海軍の守備隊は全滅した。これにより米軍は日本本土の直接爆撃を可能にする前線基地を取得、5ヶ月後の11月にはマリアナ基地を飛び立った爆撃機B29が東京初空襲を敢行した。B29による日本主要都市への爆撃は続き、翌昭和20年3月9日、10日の東京大空襲は歴史に残る大惨事となった。B29による爆撃は東北にも及び3月10日は盛岡の大沢川原から盛岡駅周辺が爆撃された。6月に入り日本の制海権・制空権を確保した米軍は護衛航空母艦に積載した航空機による爆弾攻撃や機銃掃射による攻撃を各地で展開した。
 7月になり宮古でも空襲警報発令は頻繁になり、防空頭巾を被る防空用服装が義務とされ十数戸単位の隣組が常に訓練に動員された。各家では空襲による火災に備え防火用水や土嚢を用意し、玄関先や軒下に防空壕を掘って空襲に備えたという。そしてうだるような暑さの8月9日、普代沖にあった米空母から飛び立った攻撃機が宮古上空に飛来、小規模であったが宮古は空襲された。この日釜石は艦砲射撃でほぼ全滅し、この最中に二発目の原子爆弾が長崎に投下された。

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戦時中の婦人会

藤原全焼藤原は消火活動もできずに全焼

 翌8月10日、午前6時に空襲警報発令、午前8時、月山の北から米軍機12機が飛来(宮古市戦後50年史(岩手日報刊)では9機としている)当時、ひときわ高い煙突があり魚糟から絞った油で石けんを製造していた藤原のミール工場(写真の桟橋右側付近)、現在の藤原小学校の場所にあった県立宮古中学校仮校舎(元の水産学校)、宮古造船所、閉伊川をまたぐ山田線鉄橋が攻撃目標となり藤原地区は爆撃による火災で全焼した。焼失家屋は387戸、焼死者1名、分団屯所も全焼したが自動車ポンプは伊藤牧場に避難していたので無事だった。米軍機の来襲と爆弾による熱波は強烈で伊藤牧場に避難していた人たちは消火活動はおろか一歩も動けずに藤原が燃えて行く姿を呆然と見つめた。米軍機は正午には太平洋上に去って行ったが、藤原が全焼した知らせは近隣の農村に疎開していた人たちにとってもショックな知らせとなった。

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昭和15年頃の藤原地図

空襲後の藤原

 写真は平成3年7月14日、藤原比古神社遷宮30周年記念して徳江信次郎という人が神社に奉納した空襲後の藤原を撮影した写真だ。物資不足の時代だっただけにこのような写真が残されたことは大変貴重だ。額には昭和20年8月10日藤原比古神社焼失と書かれている。撮影場所は対岸の光岸地にある善林寺墓所と思われる。撮影者は空襲後何日かしてバラック小屋が建つ変わり果てた藤原を撮影したのだろう。画面中央付近の大きな立木がある付近が遷宮前の藤原比古神社だ。ちなみに藤原比古神社は再建後アイオン台風で再び罹災し、昭和37年7月に現在の高台へ遷宮している。

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焼け野原となった藤原。比古神社に奉納された写真より

宮古空襲と消防団 『宮古市消防団第3分団に残る空襲の日誌』より

 20年7月より8月に入り、来襲日毎猛烈を加え来りて、警報の発令昼夜の別なく、寝食共にいとまとてなく、忘れんとして忘れ得ぬ8月9日午前9時30分、黒森の空より雲間を縫いて来襲せる艦載2機、我の頭上来ると見るや、そらと云う間もあらばこそ、機関砲射撃を加え、来る午後零時30分再び来襲し来り、機銃掃射加えて爆弾を投下せるため、駅前大火災を生じ付近一帯家屋倒壊、十数名の死傷者を出したり。
 越えて10日には、朝より編隊数段に別れ、全市に渉りて空襲し来り、機銃の乱射豆をいる如く、爆弾の投下又言語に絶す、為に全市一時に硝煙弾雨の巷と化し、藤原町・三井造船所・宮古製煉所・鍬ヶ崎煉瓦工場・其の他各軍需工場徹底的に破壊焼失、藤原の450戸を筆頭に約600戸を全焼、黒煙全市を包み焔の天に沖して、市外十数里の地点よりもはっきり望まれたり、此の日午後1時警防本部より第3分団へ決死消火に当るべしの命令下る。
 此の時命に服し決死消火に当りたる者、佐藤分団長以下14名なり。
 空襲の警報解除なる前、危機身近に迫る中を、宮古駅、藤原町、宮古製煉と次々奮戦敢闘、幸いにも団員一人とて傷者なく、此れ不幸中の幸いなり。

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