宮古地名図鑑(植物編)
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ゆったり館を経て国道106号が大きく右にカーブした付近に乗用車1台がやっと通る橋が閉伊川に架かっており、そこへ流れ込む沢が蕨の沢だ。この沢はサンボトジ頭(688)から流れており支流も多く水量も豊富だ。山菜のワラビがたくさん取れたのか、蕨手刀のような製鉄に関係する名称なのかは不明だ。 | ゆったり館を経て国道106号が大きく右にカーブした付近に乗用車1台がやっと通る橋が閉伊川に架かっており、そこへ流れ込む沢が蕨の沢だ。この沢はサンボトジ頭(688)から流れており支流も多く水量も豊富だ。山菜のワラビがたくさん取れたのか、蕨手刀のような製鉄に関係する名称なのかは不明だ。 | ||
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=='''花原市(けばらいち)'''== | =='''花原市(けばらいち)'''== | ||
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中世の頃、牧野開発で北上してきた源氏系の一族が閉伊川南岸に舘と草庵を築き、後に閉伊氏を名乗り宮古を統治したという。晩年閉伊氏は田鎖氏として対岸の花原市に草庵を移転、華厳院が創建した。花原市の地名は寺の創建に関係し藩政時代は楢山氏の直轄地だった。 | 中世の頃、牧野開発で北上してきた源氏系の一族が閉伊川南岸に舘と草庵を築き、後に閉伊氏を名乗り宮古を統治したという。晩年閉伊氏は田鎖氏として対岸の花原市に草庵を移転、華厳院が創建した。花原市の地名は寺の創建に関係し藩政時代は楢山氏の直轄地だった。 | ||
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=='''桐木平(きりきだいら)'''== | =='''桐木平(きりきだいら)'''== | ||
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茂市地区から閉伊川を挟んで対岸にあったとされる小字名。現在のリバーパークにいさと、ゆったり館付近から川下に下った、旧茂市8地割だが現在そこには民家はない。閉伊川の流れが土地を削ったのか、周辺造成などにより施設に取り込まれたかは不明だ。 | 茂市地区から閉伊川を挟んで対岸にあったとされる小字名。現在のリバーパークにいさと、ゆったり館付近から川下に下った、旧茂市8地割だが現在そこには民家はない。閉伊川の流れが土地を削ったのか、周辺造成などにより施設に取り込まれたかは不明だ。 | ||
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=='''桜木(さくらぎ)'''== | =='''桜木(さくらぎ)'''== | ||
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旧茂市中学校だった玄翁館と茂市公葬地から106号線をまたいで背後の尾根の先端にあたる付近が桜木だ。ここには旧新里村が造成した桜木団地があり、小字名の桜木の名が残っている茂市4地割。桜木は高台になっており西から東へ大きく湾曲して流れる閉伊川が見える。 | 旧茂市中学校だった玄翁館と茂市公葬地から106号線をまたいで背後の尾根の先端にあたる付近が桜木だ。ここには旧新里村が造成した桜木団地があり、小字名の桜木の名が残っている茂市4地割。桜木は高台になっており西から東へ大きく湾曲して流れる閉伊川が見える。 | ||
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=='''漆畑(うるしばた)'''== | =='''漆畑(うるしばた)'''== | ||
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旧和井内中学校であり現在和井内地区のコミュニティーセンターとなっている付近から北東側の斜面を漆畑と呼んだ。旧新里村が付近を宅地造成し取り付けた道路に、漆畑線の名が残っている。現在の和井内17地割。古来、漆は椀などの漆器から木材の腐食を防ぐ素材として槍、刀の鞘など武器に使われることから珍重された。 | 旧和井内中学校であり現在和井内地区のコミュニティーセンターとなっている付近から北東側の斜面を漆畑と呼んだ。旧新里村が付近を宅地造成し取り付けた道路に、漆畑線の名が残っている。現在の和井内17地割。古来、漆は椀などの漆器から木材の腐食を防ぐ素材として槍、刀の鞘など武器に使われることから珍重された。 | ||
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=='''松山(まつやま)'''== | =='''松山(まつやま)'''== | ||
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松山は閉伊川支流の長沢川下流に拓けた土地でその支配は初期閉伊氏配下・摩都山治郎義連(まとやまじろうよしつら)だったが同族の腹帯氏に討たれ、その後、出雲方面から流れてきたとされる白根氏が統治した。しかし、閉伊川対岸の千徳氏、長沢川対岸の田鎖氏に攻められ没落した。藩政時代は千徳村の飛び地でもあった。 | 松山は閉伊川支流の長沢川下流に拓けた土地でその支配は初期閉伊氏配下・摩都山治郎義連(まとやまじろうよしつら)だったが同族の腹帯氏に討たれ、その後、出雲方面から流れてきたとされる白根氏が統治した。しかし、閉伊川対岸の千徳氏、長沢川対岸の田鎖氏に攻められ没落した。藩政時代は千徳村の飛び地でもあった。 | ||
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=='''登花(のぼりはな)'''== | =='''登花(のぼりはな)'''== | ||
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茂市から閉伊川を挟んだ対岸に拓けた土地で、桐木平同様茂市8地割であり民家はない。地名の由来は、おそらく尾根の先端を意味する「鼻(はな・ぱな)」を花の文字に転訛したと考えられる。古来、この付近からサンボトジ頭(688)に通じる登り口があったと思われる。 | 茂市から閉伊川を挟んだ対岸に拓けた土地で、桐木平同様茂市8地割であり民家はない。地名の由来は、おそらく尾根の先端を意味する「鼻(はな・ぱな)」を花の文字に転訛したと考えられる。古来、この付近からサンボトジ頭(688)に通じる登り口があったと思われる。 | ||
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=='''韮野(にらの)'''== | =='''韮野(にらの)'''== | ||
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前刈山(913)などから刈屋地区へ注ぐ倉ノ沢下流の南岸一帯の刈屋11地割付近の小字名。周辺には刈屋小学校がある。周辺で数人に聞き込みをしたが韮野という名前は聞いたことはあるが正確な場所は判らないということだった。ニラは古来より食べられてきた野菜で、韮野はニラが群生していた土地を意味すると思われる。 | 前刈山(913)などから刈屋地区へ注ぐ倉ノ沢下流の南岸一帯の刈屋11地割付近の小字名。周辺には刈屋小学校がある。周辺で数人に聞き込みをしたが韮野という名前は聞いたことはあるが正確な場所は判らないということだった。ニラは古来より食べられてきた野菜で、韮野はニラが群生していた土地を意味すると思われる。 | ||
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=='''芦原平(あしはらだいら)'''== | =='''芦原平(あしはらだいら)'''== | ||
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=='''芋野(いもの)'''== | =='''芋野(いもの)'''== | ||
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=='''梨ノ木平(なしのきだいら)'''== | =='''梨ノ木平(なしのきだいら)'''== | ||
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梨ノ木平は田代街道の雄又峠を田代方面に下る途中にある集落。現在田代へ下りるには車で君田地区へ行くが、昔の街道は梨ノ木平から分岐して鍛冶ヶ沢や馬場へ下りた。また梨はリンゴのような外来種ではなく縄文時代から山の恵みとして食べられてきた果実だ。 | 梨ノ木平は田代街道の雄又峠を田代方面に下る途中にある集落。現在田代へ下りるには車で君田地区へ行くが、昔の街道は梨ノ木平から分岐して鍛冶ヶ沢や馬場へ下りた。また梨はリンゴのような外来種ではなく縄文時代から山の恵みとして食べられてきた果実だ。 | ||
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=='''樫内(かしない)'''== | =='''樫内(かしない)'''== | ||
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田老地区の南部にあり宮古地区と隣接する地域。樫と言っても植物とのは関わりはない。「淅す内(がすない)」という意で、水漬きののち、高所へ移り住んだ集落のことや、「傾内(かしない)」の意味で、緩傾斜地の集落のことを指す。 | 田老地区の南部にあり宮古地区と隣接する地域。樫と言っても植物とのは関わりはない。「淅す内(がすない)」という意で、水漬きののち、高所へ移り住んだ集落のことや、「傾内(かしない)」の意味で、緩傾斜地の集落のことを指す。 | ||
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=='''松月(まっつき)'''== | =='''松月(まっつき)'''== | ||
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宮古地域の崎山北部の海岸部に位置する集落。自然豊かな浜が広がる場所で、松続きの略で松林の中の集落を言うほか、方言の「まっつぐ」から、海に真っ直ぐ続いているところからこう呼ばれたともいう。月待信仰による「待月」の意もある。 | 宮古地域の崎山北部の海岸部に位置する集落。自然豊かな浜が広がる場所で、松続きの略で松林の中の集落を言うほか、方言の「まっつぐ」から、海に真っ直ぐ続いているところからこう呼ばれたともいう。月待信仰による「待月」の意もある。 | ||
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=='''葉の木浜(はのきばま)'''== | =='''葉の木浜(はのきばま)'''== | ||
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重茂半島の白浜地区を行く途中の道筋にある小さな浜の地名。バス停にその名を見ることが出来るが、ほとんど気がつかない。葉の木は方言の「はのき」で、ハンノキのこと。湿地があるこの周辺に多く自生しているのが見られる。 | 重茂半島の白浜地区を行く途中の道筋にある小さな浜の地名。バス停にその名を見ることが出来るが、ほとんど気がつかない。葉の木は方言の「はのき」で、ハンノキのこと。湿地があるこの周辺に多く自生しているのが見られる。 | ||
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=='''荷竹(にちく)'''== | =='''荷竹(にちく)'''== | ||
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=='''藤畑(ふじばたけ)'''== | =='''藤畑(ふじばたけ)'''== | ||
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津軽石地区の津軽石川を東側に越え、その南側一帯に広がる地域で、馬の神様である蒼前駒形神社を祀る地区。この神社に伝わる音羽姫伝説による藤を取った場所という地名由来もあるが、藤は、縁(ふち)、端(はた)から来ている。駒形神社入り口には百年以上の樹齢と思われる藤の老木があり、音羽姫の愛馬奥州黒の伝説がある。 | 津軽石地区の津軽石川を東側に越え、その南側一帯に広がる地域で、馬の神様である蒼前駒形神社を祀る地区。この神社に伝わる音羽姫伝説による藤を取った場所という地名由来もあるが、藤は、縁(ふち)、端(はた)から来ている。駒形神社入り口には百年以上の樹齢と思われる藤の老木があり、音羽姫の愛馬奥州黒の伝説がある。 | ||
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=='''稲荷橋(いなりばし)'''== | =='''稲荷橋(いなりばし)'''== | ||
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津軽石地区にある津軽石川に掛けられた橋の名前。津軽石地区に入ってすぐ目につく大きな橋で、近くの小高い山に稲荷神社が祀られていることからこの名が付けられた。神社のある周辺は稲荷ヶ下という。神社は元々個人の氏神だったが、現在は5地域からの総代で構成される地域の神社となっている。 | 津軽石地区にある津軽石川に掛けられた橋の名前。津軽石地区に入ってすぐ目につく大きな橋で、近くの小高い山に稲荷神社が祀られていることからこの名が付けられた。神社のある周辺は稲荷ヶ下という。神社は元々個人の氏神だったが、現在は5地域からの総代で構成される地域の神社となっている。 | ||
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+ | =='''藤の川(ふじのかわ)'''== | ||
+ | 磯鶏神林と高浜地区の間にある砂浜の海岸。現在は海岸線を国道45号線が通り宮古湾と対岸の重茂半島の展望が開ける美しい海岸。この道路は昭和40年代に国道整備のため土盛りと開削で海岸線に新しい道路を作ったもので、それ以前は江戸時代からの街道であった磯鶏仏沢の峠道に旧道があった。名前の由来は海岸道路を新設する前は仏沢から小さな川が注いでおりこの附近を渕と呼んでいたことに関係し、渕の川が藤の川に転訛したと思われる。 | ||
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+ | =='''藤原(ふじわら)'''== | ||
+ | 比古神社縁記に由来 | ||
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+ | 宮古湾に向かって大きく蛇行する閉伊川河口南岸に堆積した土砂によって形成されたのが藤原地区だ。藩政時代から宮古の枝村で船での往来があり地引網や小舟による沿岸漁業が起こったと考えられる。東側は宮古湾に面し大きな砂浜であったが昭和40年代中期から港湾整備のため埋め立てられ現在は宮古港藤原埠頭として機能している。海と川に囲まれた藤原は今回の津波を含め過去にも台風や高潮の被害で浸水し、また、太平洋戦争末期には米軍機 の空襲により焼け野原になっている。藤原の過去は災害の歴史でもある。 | ||
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+ | =='''緑が丘(みどりがおか)'''== | ||
+ | 昭和40年代に土盛りされた新開地 | ||
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+ | 舘合町と小沢、西町に隣接した谷地で昭和40年代の都市計画に基づいて開発整備された時に付けられた名称。当初は湿地帯で狐崎などの様々な名称で呼ばれていたが、一体を土盛りし区画整理して道路を整備した。開発整備が終わりそれまで本町の宮古市役所向かいにあった宮古地方振興局が移転、次いで大通の宮古魚菜市場や宮古広域消防署の庁舎が移転した。名前の由来は緑豊かなまちという意味と思われるが名称は行政主導であったか公募だった のかどうかは不明。 | ||
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+ | [[File:緑ヶ丘.jpg|400px]] | ||
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[[Category:宮古地名図鑑]] | [[Category:宮古地名図鑑]] |
2014年10月23日 (木) 15:05時点における最新版
植物に関係した地名というのも意外と多い。縄文の頃から食べられてきた山菜のワラビ、野生のニラなどが豊富だった場所に収穫できる植物の名を付けたもの、屋根材として地区民総出で刈り込んだ葦(芦)や、漆器や木材の防腐剤として珍重された漆などの産物を地名としたもの、明治初期の地名登録の際に植物の名を当て字として取り込んだものなど様々なパターンがある。
目次 |
[編集] 蕨の沢(わらびのさわ)
閉伊川に注ぐ小さな沢
ゆったり館を経て国道106号が大きく右にカーブした付近に乗用車1台がやっと通る橋が閉伊川に架かっており、そこへ流れ込む沢が蕨の沢だ。この沢はサンボトジ頭(688)から流れており支流も多く水量も豊富だ。山菜のワラビがたくさん取れたのか、蕨手刀のような製鉄に関係する名称なのかは不明だ。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/FK57Q :蕨の沢付近
[編集] 花原市(けばらいち)
華厳院に関係する地名か
中世の頃、牧野開発で北上してきた源氏系の一族が閉伊川南岸に舘と草庵を築き、後に閉伊氏を名乗り宮古を統治したという。晩年閉伊氏は田鎖氏として対岸の花原市に草庵を移転、華厳院が創建した。花原市の地名は寺の創建に関係し藩政時代は楢山氏の直轄地だった。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/B73lh :宮古市花原市
[編集] 桐木平(きりきだいら)
閉伊川南岸の斜面
茂市地区から閉伊川を挟んで対岸にあったとされる小字名。現在のリバーパークにいさと、ゆったり館付近から川下に下った、旧茂市8地割だが現在そこには民家はない。閉伊川の流れが土地を削ったのか、周辺造成などにより施設に取り込まれたかは不明だ。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/QmdPH :桐木平付近
[編集] 桜木(さくらぎ)
茂市地区の106号の切り通し
旧茂市中学校だった玄翁館と茂市公葬地から106号線をまたいで背後の尾根の先端にあたる付近が桜木だ。ここには旧新里村が造成した桜木団地があり、小字名の桜木の名が残っている茂市4地割。桜木は高台になっており西から東へ大きく湾曲して流れる閉伊川が見える。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/fBWxm :桜木付近
[編集] 漆畑(うるしばた)
旧和井内中学校付近の山林
旧和井内中学校であり現在和井内地区のコミュニティーセンターとなっている付近から北東側の斜面を漆畑と呼んだ。旧新里村が付近を宅地造成し取り付けた道路に、漆畑線の名が残っている。現在の和井内17地割。古来、漆は椀などの漆器から木材の腐食を防ぐ素材として槍、刀の鞘など武器に使われることから珍重された。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/aENsP :漆畑付近
[編集] 松山(まつやま)
戦乱に翻弄された松山の祖、白根氏の舘があった
松山は閉伊川支流の長沢川下流に拓けた土地でその支配は初期閉伊氏配下・摩都山治郎義連(まとやまじろうよしつら)だったが同族の腹帯氏に討たれ、その後、出雲方面から流れてきたとされる白根氏が統治した。しかし、閉伊川対岸の千徳氏、長沢川対岸の田鎖氏に攻められ没落した。藩政時代は千徳村の飛び地でもあった。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/TFgHH :松山付近
[編集] 登花(のぼりはな)
現在のゆったり館付近の俗称
茂市から閉伊川を挟んだ対岸に拓けた土地で、桐木平同様茂市8地割であり民家はない。地名の由来は、おそらく尾根の先端を意味する「鼻(はな・ぱな)」を花の文字に転訛したと考えられる。古来、この付近からサンボトジ頭(688)に通じる登り口があったと思われる。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/tMvBi :登花付近
[編集] 韮野(にらの)
刈屋小学校周辺の小字名
前刈山(913)などから刈屋地区へ注ぐ倉ノ沢下流の南岸一帯の刈屋11地割付近の小字名。周辺には刈屋小学校がある。周辺で数人に聞き込みをしたが韮野という名前は聞いたことはあるが正確な場所は判らないということだった。ニラは古来より食べられてきた野菜で、韮野はニラが群生していた土地を意味すると思われる。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/099Iu :韮野付近
[編集] 芦原平(あしはらだいら)
茅葺き屋根の葦を取った名残か
田代の宮古市野外活動センターを過ぎ大きくカーブした田代川の両岸に拓けたのが芦原平だ。3軒の民家と、現在は稼働していないが宮古市ふれあい農園の施設がある。地名の由来は不明だが葦が生い茂った丘陵地だったのではないかと考えられる。芦原平の隣は落合で、ここから下の橋を渡り芋野、上の橋を渡り大鰐谷、橋を渡らず進めば亀ヶ沢だ。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/DC3QW :芦原平付近
[編集] 芋野(いもの)
製鉄の民・鋳物師(いもじ)の集落
鋳物を意味する芋野は田代川上流の集落で畜産が盛んだ。田代川源流部には八瀬ノ滝がある。周辺は古来より砂鉄、銅、砂金などが取れた場所で燃料の木材も豊富なことから鋳物鋳造に長けた人々が住み着き、それが地名の由来になったと考えられる。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/tgcGD :芋野付近
[編集] 梨ノ木平(なしのきだいら)
果樹の梨の木があった?
梨ノ木平は田代街道の雄又峠を田代方面に下る途中にある集落。現在田代へ下りるには車で君田地区へ行くが、昔の街道は梨ノ木平から分岐して鍛冶ヶ沢や馬場へ下りた。また梨はリンゴのような外来種ではなく縄文時代から山の恵みとして食べられてきた果実だ。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/o153m :梨ノ木平付近
[編集] 樫内(かしない)
樫の木とは無関係。傾ぐという意味
田老地区の南部にあり宮古地区と隣接する地域。樫と言っても植物とのは関わりはない。「淅す内(がすない)」という意で、水漬きののち、高所へ移り住んだ集落のことや、「傾内(かしない)」の意味で、緩傾斜地の集落のことを指す。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/y57Mj :樫内付近
[編集] 松月(まっつき)
岩場のアカマツから名月が見えたか
宮古地域の崎山北部の海岸部に位置する集落。自然豊かな浜が広がる場所で、松続きの略で松林の中の集落を言うほか、方言の「まっつぐ」から、海に真っ直ぐ続いているところからこう呼ばれたともいう。月待信仰による「待月」の意もある。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/sgqKa :松月付近
[編集] 葉の木浜(はのきばま)
高浜村の飛び地だった
重茂半島の白浜地区を行く途中の道筋にある小さな浜の地名。バス停にその名を見ることが出来るが、ほとんど気がつかない。葉の木は方言の「はのき」で、ハンノキのこと。湿地があるこの周辺に多く自生しているのが見られる。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/Kiaga :葉の木浜付近
[編集] 荷竹(にちく)
山田へ向かう伝馬の荷替え場
津軽石地区の南側一帯で、山田豊間根との境となる地域。昔、街道筋があったところで、人馬の往来が多かった。それら駄馬の荷替の宿場であったことが由来となっている。また、一地区、二地区が「荷竹」と転訛した可能性もある。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/T0Gqh :荷竹付近
[編集] 藤畑(ふじばたけ)
藤の花を愛した閉伊頼基の妻音羽御前伝説がある
津軽石地区の津軽石川を東側に越え、その南側一帯に広がる地域で、馬の神様である蒼前駒形神社を祀る地区。この神社に伝わる音羽姫伝説による藤を取った場所という地名由来もあるが、藤は、縁(ふち)、端(はた)から来ている。駒形神社入り口には百年以上の樹齢と思われる藤の老木があり、音羽姫の愛馬奥州黒の伝説がある。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/ND0cX :藤畑付近
[編集] 稲荷橋(いなりばし)
鮭を仕分けした川帳場に架かる橋稲荷神社に由来
津軽石地区にある津軽石川に掛けられた橋の名前。津軽石地区に入ってすぐ目につく大きな橋で、近くの小高い山に稲荷神社が祀られていることからこの名が付けられた。神社のある周辺は稲荷ヶ下という。神社は元々個人の氏神だったが、現在は5地域からの総代で構成される地域の神社となっている。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/eUvNs :稲荷橋付近
[編集] 藤の川(ふじのかわ)
磯鶏神林と高浜地区の間にある砂浜の海岸。現在は海岸線を国道45号線が通り宮古湾と対岸の重茂半島の展望が開ける美しい海岸。この道路は昭和40年代に国道整備のため土盛りと開削で海岸線に新しい道路を作ったもので、それ以前は江戸時代からの街道であった磯鶏仏沢の峠道に旧道があった。名前の由来は海岸道路を新設する前は仏沢から小さな川が注いでおりこの附近を渕と呼んでいたことに関係し、渕の川が藤の川に転訛したと思われる。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/Od300 :藤の川付近
[編集] 藤原(ふじわら)
比古神社縁記に由来
宮古湾に向かって大きく蛇行する閉伊川河口南岸に堆積した土砂によって形成されたのが藤原地区だ。藩政時代から宮古の枝村で船での往来があり地引網や小舟による沿岸漁業が起こったと考えられる。東側は宮古湾に面し大きな砂浜であったが昭和40年代中期から港湾整備のため埋め立てられ現在は宮古港藤原埠頭として機能している。海と川に囲まれた藤原は今回の津波を含め過去にも台風や高潮の被害で浸水し、また、太平洋戦争末期には米軍機 の空襲により焼け野原になっている。藤原の過去は災害の歴史でもある。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/RkdO5 :藤原付近
[編集] 緑が丘(みどりがおか)
昭和40年代に土盛りされた新開地
舘合町と小沢、西町に隣接した谷地で昭和40年代の都市計画に基づいて開発整備された時に付けられた名称。当初は湿地帯で狐崎などの様々な名称で呼ばれていたが、一体を土盛りし区画整理して道路を整備した。開発整備が終わりそれまで本町の宮古市役所向かいにあった宮古地方振興局が移転、次いで大通の宮古魚菜市場や宮古広域消防署の庁舎が移転した。名前の由来は緑豊かなまちという意味と思われるが名称は行政主導であったか公募だった のかどうかは不明。
[編集] 地図
https://goo.gl/maps/fJXdC :緑が丘付近