田老
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− | == | + | == 田老の歴史 == |
平成●年6月、市町村合併により宮古市となった田老。それ以前は田老町としてまた、藩政時代は田老村として三閉伊通りにその歴史を刻んできた。宮古代官所直轄地であった田老村だがその多くは楢山家、摂待家を筆頭とした南部藩に仕えた武士たちの知行地であった。また、牛を使った交易で海産物や塩を秋田領まで運び各城下の見聞や文化を持ち帰った摂待村の牛方、宮古湾の建網よりひと足早く操業が開始された真崎の建網漁業など田老には特筆される歴史がある。<br> | 平成●年6月、市町村合併により宮古市となった田老。それ以前は田老町としてまた、藩政時代は田老村として三閉伊通りにその歴史を刻んできた。宮古代官所直轄地であった田老村だがその多くは楢山家、摂待家を筆頭とした南部藩に仕えた武士たちの知行地であった。また、牛を使った交易で海産物や塩を秋田領まで運び各城下の見聞や文化を持ち帰った摂待村の牛方、宮古湾の建網よりひと足早く操業が開始された真崎の建網漁業など田老には特筆される歴史がある。<br> | ||
− | == | + | == 藩政時代の田老村と周辺枝村 == |
藩政時代の田老村は下閉伊通りの一部として南部氏に支配され宮古代官所の直轄地であったが、主に武士が私有地として受領した知行地となっていた。知行していた武士は時代により変遷があるものの田老村・末前村が楢山家、摂待村が久慈家、乙部村が野田家であった。この他時代により赤前家、中里家の知行地となったこともある。<br> | 藩政時代の田老村は下閉伊通りの一部として南部氏に支配され宮古代官所の直轄地であったが、主に武士が私有地として受領した知行地となっていた。知行していた武士は時代により変遷があるものの田老村・末前村が楢山家、摂待村が久慈家、乙部村が野田家であった。この他時代により赤前家、中里家の知行地となったこともある。<br> | ||
年代に分類すると天正19年(1591)の九戸政実の乱の功労で久慈孫八郎(久慈)が摂待村二百石を知行。享保3年(1718)末前村が楢山五太夫の知行となる。以後寛保元年(1741)野田理右ェ門が知行地である乙部村の水害耕地を復旧などの記録がある。これら支配階層の武士の下には家臣がおり、田老の地に根を下ろしていたと考えられる。文化6年(1809)の楢山益人を例にとると、舘九郎ェ門、鳥居伝右ェ門、舘石万右ェ門、三浦助右ェ門らの名が家来として羅列されている。また、幕末の慶応2年(1866)の楢山家家臣名簿には舘磯八、鳥居良作、山口竜太、舘石勇八、吉田忠之進、吹田伊五右ェ門、中島権次郎、八幡神社別当・三浦助右ェ門、新山別当・大泉院らの名前がある。<br> | 年代に分類すると天正19年(1591)の九戸政実の乱の功労で久慈孫八郎(久慈)が摂待村二百石を知行。享保3年(1718)末前村が楢山五太夫の知行となる。以後寛保元年(1741)野田理右ェ門が知行地である乙部村の水害耕地を復旧などの記録がある。これら支配階層の武士の下には家臣がおり、田老の地に根を下ろしていたと考えられる。文化6年(1809)の楢山益人を例にとると、舘九郎ェ門、鳥居伝右ェ門、舘石万右ェ門、三浦助右ェ門らの名が家来として羅列されている。また、幕末の慶応2年(1866)の楢山家家臣名簿には舘磯八、鳥居良作、山口竜太、舘石勇八、吉田忠之進、吹田伊五右ェ門、中島権次郎、八幡神社別当・三浦助右ェ門、新山別当・大泉院らの名前がある。<br> | ||
楢山家は知行地の石高を上げるため村の発展に努めたという。文書によると普請と呼ばれる耕地開拓、洪水対策、災害復旧などを実施した記録が残されている。その中には天保15年(1844)前年の火事で焼失した田老村復旧のため杉50本、松100本の払い下げを楢山家が南部藩に申し出て、これにより復興した田老村は100軒ほどが立ち並ぶ町並みとなり、造り酒屋、商店なども発生し、毎月6日、16日、26日と「6」のつく日に市が立ち賑わったという。<br> | 楢山家は知行地の石高を上げるため村の発展に努めたという。文書によると普請と呼ばれる耕地開拓、洪水対策、災害復旧などを実施した記録が残されている。その中には天保15年(1844)前年の火事で焼失した田老村復旧のため杉50本、松100本の払い下げを楢山家が南部藩に申し出て、これにより復興した田老村は100軒ほどが立ち並ぶ町並みとなり、造り酒屋、商店なども発生し、毎月6日、16日、26日と「6」のつく日に市が立ち賑わったという。<br> | ||
− | + | ==宮古湾より早い建網創建== | |
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田老村小湊(真崎海岸・小港)には文政6年(1809)に八之丞という人物によってマグロ建網が創建されている。建網による漁業は宝永3年(1706)に牡鹿半島から伝わったとされ、宮古湾では文政9年(1826)に船越村の田代角左衛門によって開始されたとされ、それに比べると田老村の建網は17年も早い時期から行われていたということになる。<br> | 田老村小湊(真崎海岸・小港)には文政6年(1809)に八之丞という人物によってマグロ建網が創建されている。建網による漁業は宝永3年(1706)に牡鹿半島から伝わったとされ、宮古湾では文政9年(1826)に船越村の田代角左衛門によって開始されたとされ、それに比べると田老村の建網は17年も早い時期から行われていたということになる。<br> | ||
のち小湊の漁場は鳥居伝右ェ門に経営が移り幕末まで操業され、明治になり腹子七兵衛が漁業権を得ている。八之丞の孫にあたる松本大助(明治23年・71歳没)は江戸末期にかけて小湊の大棒(定置網の頭領)として活躍し、多くの後進たちに漁業指導をした人で大助の墓の台座には三陸沿岸各地の漁師の名が刻まれているという。<br> | のち小湊の漁場は鳥居伝右ェ門に経営が移り幕末まで操業され、明治になり腹子七兵衛が漁業権を得ている。八之丞の孫にあたる松本大助(明治23年・71歳没)は江戸末期にかけて小湊の大棒(定置網の頭領)として活躍し、多くの後進たちに漁業指導をした人で大助の墓の台座には三陸沿岸各地の漁師の名が刻まれているという。<br> | ||
三陸名産で藩政時代から大陸に輸出されていた、干鮑、煎海鼠、フカ鰭は長崎俵物として南部藩の経済を支えていた。田老村では宝暦5年(1755)に吹田伊五右衛門が藩の許可を得て干鮑を生産し、その後吉田忠右衛門らが干鮑を手掛け田老村の海産物商人として活躍した。また代々襲名する鳥居伝右ェ門は造り酒屋を営み漁業や交易を手広く営む田老村の豪商であった。 | 三陸名産で藩政時代から大陸に輸出されていた、干鮑、煎海鼠、フカ鰭は長崎俵物として南部藩の経済を支えていた。田老村では宝暦5年(1755)に吹田伊五右衛門が藩の許可を得て干鮑を生産し、その後吉田忠右衛門らが干鮑を手掛け田老村の海産物商人として活躍した。また代々襲名する鳥居伝右ェ門は造り酒屋を営み漁業や交易を手広く営む田老村の豪商であった。 | ||
− | == | + | == 物流を支えた牛方== |
天保9年(1838)摂待村の作兵衛という牛方は、45頭の牛に海産物や塩を積載して秋田領まで出向いていたことが記録されている。またこの他に徳右ェ門、六兵衛、彦之丞などの牛方の名前も残されている。 | 天保9年(1838)摂待村の作兵衛という牛方は、45頭の牛に海産物や塩を積載して秋田領まで出向いていたことが記録されている。またこの他に徳右ェ門、六兵衛、彦之丞などの牛方の名前も残されている。 | ||
彼らは岩泉から早坂を経由し盛岡城下へ入ったが通常この行程に二泊三日かかるところを一泊二日で結んでいた。荷は三陸沿岸で生産された海産物や塩などで遠く秋田領まで運び込み帰り荷として雑穀やろうそくなどを運んでいたという。<br> | 彼らは岩泉から早坂を経由し盛岡城下へ入ったが通常この行程に二泊三日かかるところを一泊二日で結んでいた。荷は三陸沿岸で生産された海産物や塩などで遠く秋田領まで運び込み帰り荷として雑穀やろうそくなどを運んでいたという。<br> | ||
摂待村だけでなく、三陸沿岸から内陸部に塩を運んだ南部の牛方たちは、荷受先の各城下で独自のネットワークから次の積荷を請け負い三陸沿岸~盛岡城下~秋田~下北~八戸~三陸沿岸と渡り歩き1年、あるいはそれ以上をかけて移動しながら塩や穀物をはじめ、砂鉄、鉄鉱石などまで運んでいたという。 | 摂待村だけでなく、三陸沿岸から内陸部に塩を運んだ南部の牛方たちは、荷受先の各城下で独自のネットワークから次の積荷を請け負い三陸沿岸~盛岡城下~秋田~下北~八戸~三陸沿岸と渡り歩き1年、あるいはそれ以上をかけて移動しながら塩や穀物をはじめ、砂鉄、鉄鉱石などまで運んでいたという。 | ||
− | == | + | == 関連事項== |
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[[Category:宮古歴史]] | [[Category:宮古歴史]] |
2012年11月12日 (月) 13:35時点における版
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田老の歴史
平成●年6月、市町村合併により宮古市となった田老。それ以前は田老町としてまた、藩政時代は田老村として三閉伊通りにその歴史を刻んできた。宮古代官所直轄地であった田老村だがその多くは楢山家、摂待家を筆頭とした南部藩に仕えた武士たちの知行地であった。また、牛を使った交易で海産物や塩を秋田領まで運び各城下の見聞や文化を持ち帰った摂待村の牛方、宮古湾の建網よりひと足早く操業が開始された真崎の建網漁業など田老には特筆される歴史がある。
藩政時代の田老村と周辺枝村
藩政時代の田老村は下閉伊通りの一部として南部氏に支配され宮古代官所の直轄地であったが、主に武士が私有地として受領した知行地となっていた。知行していた武士は時代により変遷があるものの田老村・末前村が楢山家、摂待村が久慈家、乙部村が野田家であった。この他時代により赤前家、中里家の知行地となったこともある。
年代に分類すると天正19年(1591)の九戸政実の乱の功労で久慈孫八郎(久慈)が摂待村二百石を知行。享保3年(1718)末前村が楢山五太夫の知行となる。以後寛保元年(1741)野田理右ェ門が知行地である乙部村の水害耕地を復旧などの記録がある。これら支配階層の武士の下には家臣がおり、田老の地に根を下ろしていたと考えられる。文化6年(1809)の楢山益人を例にとると、舘九郎ェ門、鳥居伝右ェ門、舘石万右ェ門、三浦助右ェ門らの名が家来として羅列されている。また、幕末の慶応2年(1866)の楢山家家臣名簿には舘磯八、鳥居良作、山口竜太、舘石勇八、吉田忠之進、吹田伊五右ェ門、中島権次郎、八幡神社別当・三浦助右ェ門、新山別当・大泉院らの名前がある。
楢山家は知行地の石高を上げるため村の発展に努めたという。文書によると普請と呼ばれる耕地開拓、洪水対策、災害復旧などを実施した記録が残されている。その中には天保15年(1844)前年の火事で焼失した田老村復旧のため杉50本、松100本の払い下げを楢山家が南部藩に申し出て、これにより復興した田老村は100軒ほどが立ち並ぶ町並みとなり、造り酒屋、商店なども発生し、毎月6日、16日、26日と「6」のつく日に市が立ち賑わったという。
宮古湾より早い建網創建
田老村小湊(真崎海岸・小港)には文政6年(1809)に八之丞という人物によってマグロ建網が創建されている。建網による漁業は宝永3年(1706)に牡鹿半島から伝わったとされ、宮古湾では文政9年(1826)に船越村の田代角左衛門によって開始されたとされ、それに比べると田老村の建網は17年も早い時期から行われていたということになる。
のち小湊の漁場は鳥居伝右ェ門に経営が移り幕末まで操業され、明治になり腹子七兵衛が漁業権を得ている。八之丞の孫にあたる松本大助(明治23年・71歳没)は江戸末期にかけて小湊の大棒(定置網の頭領)として活躍し、多くの後進たちに漁業指導をした人で大助の墓の台座には三陸沿岸各地の漁師の名が刻まれているという。
三陸名産で藩政時代から大陸に輸出されていた、干鮑、煎海鼠、フカ鰭は長崎俵物として南部藩の経済を支えていた。田老村では宝暦5年(1755)に吹田伊五右衛門が藩の許可を得て干鮑を生産し、その後吉田忠右衛門らが干鮑を手掛け田老村の海産物商人として活躍した。また代々襲名する鳥居伝右ェ門は造り酒屋を営み漁業や交易を手広く営む田老村の豪商であった。
物流を支えた牛方
天保9年(1838)摂待村の作兵衛という牛方は、45頭の牛に海産物や塩を積載して秋田領まで出向いていたことが記録されている。またこの他に徳右ェ門、六兵衛、彦之丞などの牛方の名前も残されている。
彼らは岩泉から早坂を経由し盛岡城下へ入ったが通常この行程に二泊三日かかるところを一泊二日で結んでいた。荷は三陸沿岸で生産された海産物や塩などで遠く秋田領まで運び込み帰り荷として雑穀やろうそくなどを運んでいたという。
摂待村だけでなく、三陸沿岸から内陸部に塩を運んだ南部の牛方たちは、荷受先の各城下で独自のネットワークから次の積荷を請け負い三陸沿岸~盛岡城下~秋田~下北~八戸~三陸沿岸と渡り歩き1年、あるいはそれ以上をかけて移動しながら塩や穀物をはじめ、砂鉄、鉄鉱石などまで運んでいたという。