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2014/11 走るスーパーと流浪ラーメン

提供:ミヤペディア
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 震災後、色々な面で人々の価値観が変わったが、日本が少子化であり超高齢化社会であることは変わっていない。濃密化した子ども社会の中には濃厚なイジメが存在し、毎朝介護施設のバスに乗って出掛ける老人たちの目は虚空を見つめたままだ。敗戦から立ち直り技術と工夫で世界に羽ばたこうとした国の最終章がこの結果であればなんだか虚しい。さりとて近い将来に一発逆転のどんでん返しがあるような予感もない。そんな身の周りを見ていると、未来という言葉そのものが希望の象徴だったあの時代を思い出すのだった。

 高度成長時代と呼ばれた昭和30~40年代は人々にバイタリティーが漲っていた。貧弱な食生活だったが「バガバガド/もりもりと」食って「ネブル/寝る」間も惜しんで仕事をした。会社でも学校でも誰もがあからさまに人と競争をして「ウエサウエサ/上へ上へ」向かって一流大学、一流会社、そして一戸建てのわが家と最新の電化製品に憧れた。そんな「ムタクタナ/がむしゃらな」時代であったが、今よりずっと心が健全で誰もが逞しかった。そんな時代だからこそ先進的なユニークな商売も多数発生しては、消えていったのであった。今月はそんな昭和まっただ中の「ミヤゴマヅ/宮古街」を走っていた移動店舗の思い出から振り返ってみよう。 近所の「ミセヤッコ/小売店」から総合的に何でも揃うスーパーマーケットが集客率を上げようとしている昭和40年代初期、大型バスを使った画期的な商売が現れた。その名もなんと「走るスーパー」である。文字通りバスの車内から座席を外してそのスペースに陳列ケースや棚を増設しバスを店舗化したもので今で言う移動販売の先駆けであった。走るスーパーは通常のバスの行き先表示窓と車体両サイドに「走るスーパー」とスピード感がある斜体で描かれた緑色地中心の配色のバスで、ベージュ色に赤い線の岩手県北バスを見慣れた目に新鮮な配色だったと記憶している。

 スーパー方式とは店内に陳列された商品の中から客が「ホスー/欲しい」品物を自分で専用の「カゴサエレデ/カゴに入れて」レジで精算するというアメリカ式の販売スタイルで、宮古では末広町の丸源スーパーなどが先駆者であった。この方式を「バスンナガ/バスの中で」行い、しかもニースに応じて店舗は「インノグ/移動」するという画期的かつ「ショイコアギネー/行商」の基本が根底に流れていた。走るスーパーの出現場所はまだ「ミセヤ」が少ない新興住宅地が多かった。僕の住んでいた小山田のあけぼの団地、堤ヶ丘団地、そして愛宕方面では中里団地などでよく見かけたものだ。

 当時の宮古市における道路舗装率は極めて低く「セメン/セメント」の舗装路は末広町、大通りとラサの道路ぐらいだった。そんな時代「バスンナガサ/バスの中に」陳列用什器を入れ振動で倒れないよう固定し、豆腐や「コンヤグ/コンニャク」などの水物などは移動中は「フタッコ/蓋」をしなければならなかったであろう。そんな手間暇がかかる移動販売だったと思われる。それでも僕はその内部がどうなっているか知りたくて一度だけ走るスーパーで買い物をしたことがあった。買ったのは森永のチョコボールで、購入後夢が叶ったような達成感に浸ったことを覚えている。

 震災後誰かがバスを改造して移動販売をやっていたけれど、それもいつのまにか消え去った。走るスーパーも同様で昭和40年代初期のある一時期のみに存在した異端の商売であった。許認可などあやふやな時代だったが冷蔵ストッカーなどない時代だったから食品衛生法などで規制されたのかも知れない。先日、とある古老にこの走るスーパーの話をしたところ、これを経営していたのは当時、栄町あたりにあった魚屋さんだったらしい。誠に先進的な発想であったと評価したい。

 さて次の移動販売は、夜の街に出没していた牽引式キャンピングカーを改造した屋台ラーメン、その名も流浪ラーメンだ。流浪ラーメンは昭和48年頃にはじまった今はなき夜鳴きラーメンの屋台だ。この屋台は夕方に店主が運転するワンボックスカーに「ヒッパラレデ/引かれて」佐原の坂を降りてきて、当初は中央通りの貫洞書店前あたり(現セントラルホテル熊安附近)で営業し「甘かったら言ってね、タレ足すから」のお馴染みの口調で「ヨッパレー/酔っぱらい」の腹を満たしていた。僕がこのラーメンを最初に食べたのは中学3年の頃で、「ヨンマニ/夜に」友人の父親の車で連れて行かれたのが最初だ。こんな店が出ていたなんて知らなくてある意味カルチャーショックだった。店舗となっているキャンピングカーの両側と後には簡易カウンターがあってその上には裸電球がぶら下がっていた。店主は大鍋に囲まれた「マンナガサ/中央に」おり噂ではその寸胴鍋の中にはダシとして豚の頭が丸ごと入っているという噂だったが定かではない。

 宮古における屋台ラーメンの歴史は昭和8年頃まで遡り、ラーメンではなく支那そばと呼んでいた。当時はリヤカーを改造した屋台が辻に立ち、チャルメラを鳴らしてローソクの灯りで調理し、客は屋台で食うこともあったがほとんどは鍋や丼を持って買いに行って持ち帰って家で食べることが多かったようだ。戦後の物資不足を経て昭和30年頃に大通りの第二トキワ座付近に支那そば、いや、この時代は中華そばを出す店が開店した。名前は「トキワ」でこれは第二トキワ座に掛けたものらしい。この時代あたりから屋台の中華そばで繁盛した人が店舗を持ったり、駅前引揚者マーケットの食堂が中華そばを提供し、中華そばは庶民の食べ物となった。

 聞くところによれば宮古市において屋台での販売営業は保健所の許可が下りず営業出来ないというが、冬などタクシーを待つ間の屋台ラーメンの温かさは何者にも変えられない。ちなみに時代が下ると流浪ラーメンの営業場所は末広町玉木屋スーパー前(現カラオケクレヨン附近)や、わたなべ駐車場附近へと文字通り流浪したが現在は営業していない。最近の宮古の夜の街はめっきり静かになったが賑やかだった時代の流浪ラーメンの赤い暖簾が懐かしい限りだ。

懐かしい宮古風俗辞典

すける

助ける、手伝う、力になってやること。宮古弁というより古語的要素があり、封建時代の江戸弁としても有名。池波正太郎の時代小説でも使われている。

宮古弁で第三者に手助けをこう場合「スケデケデ」と言うのが普通だろう。「スケデ」は助けてを意味し「ケデ」は~くださいを意味する。助けるは「手(た)助ける」で「たすける」とも書くことから元々「手助け(てだすけ)」手を貸す意味を持っている。人命救助や人助けなども究極的には誰かのために他人が手を貸す「スケル」ことにつながる。時代小説の大御所・池波正太郎の名作『鬼平犯科帳』や『仕掛人梅安』などの脚本には「スケル」という表現が頻繁に出てくる。方言や古語に精通した作家先生が作品で使うほどだから、江戸時代には「スケル」という言葉は普通に使われていたと考えられる。しかし、時代が下って首都圏では「スケル」を「手伝う」に置き換え使用頻度は下がった。けれど地方では言葉のビックバン状態で今でも「スケル」を使い「手伝う」も同等に使用する。ちなみにピアノなど重く大きい物の移動運搬などで手伝いに集まった人などを「スケト/助け人」と呼んだりする。

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