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2014/11 周辺町村の石碑を巡る3

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岩泉を散策する

 最近の石碑散策はバイクを使うとことが多い。土地勘のない場所では資料より機動力がものを言う。バイクなら長年のカンでちょっと怪しそうな山道でも走行可能だ。ただし、雨には弱い。だから天気が崩れそうな日はバイクでの散策はしないようにしている。そんなわけで今月も宮古市に隣接する町村の石碑を取材した。

 最初の写真は岩泉町のJR岩泉駅の駅舎前にある開業記念の石碑だ。岩泉線は戦時中、釜石製鉄で精錬の際に使われる耐火粘土を運ぶため敷設され、戦後は豊富な木材や木炭を運んだ貨物路線だったが、昭和47年(1972)当初の終点だった浅内駅から線路が延長され岩泉駅が開業した。岩泉町は悲願の列車開通に湧き70年代の観光ブームの追い風もあり名所・龍泉洞は大いに賑わった。石碑には当時の運輸大臣・丹羽喬四郎による、岩泉驛の真鍮製の額が嵌められ、台座の石に岩泉線開通記念、昭和47年と刻まれた御影石が嵌められている。丹羽喬四郎は明治37年(1904)東京に生まれ昭和6年(1931)に内務省勤務、戦後の昭和27年(1952)茨城3区から衆議院議員となり、昭和46年(1971)第3次佐藤改造内閣において運輸大臣となった。現在の岩泉線は地域住民が利用するローカル線として存続していたが、平成22年(2010)の土砂崩落事故により不通となったまま今年、春に廃止が決定した。岩泉線の年間旅客人員のピークは昭和50年(1975)の61万7千人であったが、その後減少の一途をたどり平成7年には一日の利用客が186人であった。岩泉駅が稼働していた頃は駅舎2階が商工会館だったが、現在は移転し駅舎はJRの管理物件となり立ち入ることはできない。

 次の写真も岩泉駅にある石碑で山峡の歌人と呼ばれた西塔幸子の歌を嵌めた歌碑だ。石碑は駅前駐車場の園地に建てられており、正面に立つと岩泉の霊峰・宇霊羅山(604m)を望む絶好のロケーションだ。碑文は次の通り

  紺碧の

  水わくところ

  天そそる

  城とぞ見らむ

  大き岩かも

 西塔幸子は明治33年(1900)当時の紫波郡不動村に生まれ大正8年(1919)岩手師範学校女子部を卒業した。大正10年12月に旧磯鶏村尋常小学校に転任。磯鶏小学校時代は西塔ではなく旧姓大村カウとしての記録が残る。女啄木と称され、赴任地で多くの叙情的短歌を残したが、子どもの死や夫の酒乱、火災、自身の病気で36歳で没した。岩泉町との関わりは昭和2年(1927)に二升石尋常高等小学校に赴任した由縁がある。

 次の写真は龍泉洞から流れる川が市街地で大きく湾曲した中家地区にある明治乳業の工場跡地に建てられた石碑だ。場所的には岩泉病院の裏手になりB&G財団の海洋センターの近くだ。碑文は、かつてこの地に明治乳業岩泉工場ありき。とあり下部に平成三年(1991)十月十九日、明治岩泉会、背面に澤中末吉書とある。石碑横には明治橋アトという標柱もありかつて工場から対岸の大館地区に渡る橋が架けられていた痕跡が残る。石碑下には明治乳業の歴史と岩泉工場の歩みが刻まれたプレートがある。それによりと昭和4年8月明治製乳株式会社岩泉工場設立、練乳、バター製造、昭和11年4月明治製菓株式会社岩泉工場と改称など製造品目を増やし、全国的に酪農が下火になる昭和52年3月をもって本社生産体制の再編成によって岩泉工場閉鎖の記録が刻まれている。

 戦後の高度成長期、釜石に新日鐵釜石があり山田に日東捕鯨の基地があり、宮古にはラサ工業宮古精錬所、田老には田老鉱山、そして岩泉には明治乳業の工場があった。それらは地域経済に大きく貢献し新しい文化の香りも残していった。現在それら大企業は衰退したり再編成を余儀なくされながら地域と訣別し過去の栄光の下で存続している。この石碑はそんな昭和時代の岩泉町を物語る石碑なのかも知れない。

 最後の写真は龍泉洞を経て安家へ向かう県道7号線沿いの沢廻地区にある石碑群の中にあった供養塔だ。石碑には繭を模った意匠があり中央に蚕影山、上部に達筆な書体で文字が刻まれている。年号や詳細はないが養蚕供養塔であると思われる。石碑周辺には数十基の石碑や何らかの意匠を持った岩が集合している。これらは三田地五郎兵衛という人が江戸末期から明治にかけて個人で収集し龍泉洞が湧口(わっくち)と呼ばれていた頃、入口付近に祀ったものだ。しかし、後年になり洪水などで石碑が流されたため現在地に集めたものらしい。三田地五郎兵衛は天保12年(1841)に岩泉字沢廻の屋号・志門屋に生まれた。江戸期に殿様の籠を担ぐ陸尺として南部藩に奉公し、晩年は奇岩を集め龍泉洞前に祀ったという。五郎兵衛は湧口の隆盛を願い供養碑などをも数多く建立したという。写真の養蚕供養塔も当時、この地で養蚕が盛んであったことを物語ると同時に繭玉を並べたその意匠に敬意を評するものである。

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