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2014/10 周辺町村の石碑を巡る2

提供:ミヤペディア
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荒川・豊間根周辺

 先月に続いて今月も宮古市周辺の石碑を散策した。とは言え、宮古下閉伊地方の伝説や信仰関係の取材で近隣町村の取材も何度となくやっているから、おおむね怪しい場所は見当がつくし、石碑群の場所も判る。加えて震災後の被災地はweb界の大手でもあるGoogleによるマップ閲覧サービスが充実しており、主要幹線道路沿いであれば記憶をたよりにGoogleマップで周辺を探せば石碑の有無も確認出来る。とは言え、さすがに碑文までは読めないが、ある意味で恐ろしい世の中になったものだと感心する。

 さてそんなわけで最初に訪れたのは山田町豊間根の荒川地区にある旧荒川公民館脇の開田記念碑だ。この石碑は他所で見かける開田記念碑に比べるとかなりの大きさがあり、この地区における水田をはじめとした農業整備がかなり困難を極め、その成功と整備完了が地区民にとってこのうえない喜びと誇りだったことが伺える。

 荒川公民館は旧荒川村時代の建物と思われ古風な佇まいだ。地下部分は往時は稚蚕共同飼育所として使われていたらしく、今も看板が残る。外側にはつづら折りの階段があり最上部は防災用の望楼になっていたりと、ちょっとした産業遺跡的建造物だ。石碑は3m弱の粘板岩のような1枚岩版で上部額に横書きで開田記念とある。これは当時の岩手県知事・千田正によるものだ。碑文は懐古調な文面でこの地区の水田整備が困難であったこと、当時の村長ら先人が大変な苦労をして計画を遂行してきた歴史が刻まれている。碑文末には昭和四十二年三月(1967)山田町長、佐藤善一撰文、阿部海秋書丹とあり、背面には当時の組合員約40名の連名と末尾に宮城県石巻市井内、亀井久六刻(略字)とある。

 次の石碑は荒川地区に伝わる隠れ切支丹伝説に由来する石碑だ。その昔、荒川の奥の鉱山に従事する一族が隠れ切支丹であるとされ童女を含む一族が処刑されその遺体が荒川村の辻に何十年も遺棄されたままになった。これは異教徒の亡骸であるため処置できず、また見せしめとして放置されたもので、後、時代が下ってこれを哀れんだ里人が供養の石碑を建てたものだ。伝説では切支丹と疑われた一族の長は逃げおおせ十二神の山を越え名前を変えて重茂村に土着したとされる。遺体が遺棄されたとされる場所は曽根地区入口付近の石碑群だが、この辺りは昭和初期に開田事業で大きく造成されているので石碑群のある場所であったという確証はない。また石碑は供養碑の他に西国塔、山神塔、蓄霊塔などもあり区画整理によって様々な場所から石碑が集められた形跡もある。写真の供養碑は享保18年(1733)八月に建てられたもので、上部に、心、南無西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀仏、各施主敬とあり多くの連名が刻まれている。伝説によれば隠れ切支丹処刑事件は江戸初期の寛永20年(1643)なので、この供養碑は事件から90年後に建てられたものだ。なお、今でも本当に隠れ切支丹であったか、偽金造りであったかなど、咎の詳細こそ不明のままだがこの事件で処刑された15名の戒名は津軽石瑞雲寺にあるという。

 次の写真は荒川から豊間根へ抜け山田に到る旧街道沿いににある清川観音という神社の手水鉢だ。形状は下部に向かって細くなる逆四角錐で社側の側面に所願成就、前面は苔むしているが寛政三年(1791)らしきの年号があり、別当・三助他、奉納者の連名が周りを囲んでいる。神社内部には装飾がついた約1mほどの厨子がありこの中に御神体である観世音菩薩が奉られていると思われる。天上からは鈴が付いた金の尾がぶら下がり、厨子の前には仏用の真鍮のロウソク立て、灰が入った線香立てなどが置かれ、この社は神仏が習合した古い形態で明治維新を迎え、その形を残したまま信仰されてきたことがわかる。神社は個人持ちの氏神だが登り口に建つ石鳥居の柱と脇の鳥居建立寄付者を刻んだ石版にはこの神社を奉る清川氏一族の名と、元内閣総理大臣・鈴木善幸、鈴木善也、鈴木善剛らの名もある。山田の鈴木一族は漁業に特化し船主、定置網の網元、乾鮑製造卸、魚函製造などで山田の経済を牽引してきた名家でこの神社を奉る清川氏との関わりも深いと思われる。

 最後の石碑は豊間根から山田に向かう旧街道の交差点に建つ追分道標だ。碑には右ハ宮古道、左ハ甲子道とあり年号はない。しかし、この石碑と並んで建つ安政元年(1854)の馬頭観音碑の石材の質、文字の流れや崩しなどがかなり似ており、道標もこの時期に同じ職人の手で刻まれたものと思われる。道は祭神峠を越えて関口不動のある山田町北部の関口地区に通じている。

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