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2014/09 周辺町村の石碑を巡る

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 今月はちょっと趣向を変えて宮古市内に隣接する市町村で見つけた石碑を紹介しようと思う。平成の合併から宮古市は旧田老町、旧新里村を加え岩手県で最大の面積をもつ巨大な市となったわけだが、それに伴い以前は他町村を経由して近隣だった岩泉町、大槌町、田野畑村、そして旧大迫町(現・花巻市)、遠野市、盛岡市と隣接することになった。ただしご存じの通り広大な面積を持つ宮古市は早池峰山系をはじめ広大な森林を有し人口密度は、1平方キロあたり44・84人と少なく全国でも1741番中、1396番とかなり低い数字だ。また、盛岡、遠野、花巻と隣接することからもう本誌の石碑散策もお隣さんこんにちはの感覚で盛岡や遠野の石碑を紹介しても何らおかしくはない状態だ。とは言え、みやこわが町で遠野あたりの石碑を紹介してもピンとこない。やはり本誌にとって近隣のイメージは山田町、岩泉町、田野畑村なのである。

 さて最初の石碑は岩泉町の小本地区旧中野村の辻に集められた石碑群の中にある仏閣拝礼塔だ。四国のお遍路巡りの満願を記念して建てられたもので、面白いところは筋彫りで描かれた弘法大師の姿があることだ。これなら手を合わせ拝む者にとって文字とは別な形で信仰が伝わる。石碑上部には大日如来を表し密教では仏を表す最大の梵字のア、その下に弘法大師、両側に四國八十八ヶ所とあり、中央に数珠と三鈷杵を持って座す弘法大師の筋彫りと下部は蓮の意匠が施されている。台座には施主、當(当)村、工藤菊松とある。建立年代は台座の左右にあると思われるが、隣の石碑と隙間無く再建立されているため読むことはできない。石碑周辺には戦前の中野地区公民館だった建物などもあり、往時は岩泉村と小本村を結ぶ街道沿いであったことがわかる。藩政時代の小本村は南部藩直営の鮭川を有する漁業が盛んで大いに栄えた。維新後、明治22年(1889)の合併で小本村を含め周辺の中里村、中島村、袰野村が合併し小本村が誕生、後に下閉伊郡に組み込まれ、戦後の昭和31年(1956)岩泉町、安家村、有芸村、大川村と合併し岩泉町に組み込まれた。昭和30年代は豊富な水産資源と山間部から出荷される木炭で小本港は賑わい、元村のメイン通りは小本銀座と呼ばれ料理屋、旅館、映画館が軒を並べた。しかしそれら旧市街地は震災の津波により跡形もなく姿を消してしまった。

 次の石碑も岩泉町にある。場所は押角峠宇津野沢附近の国道340号線沿いだ。石碑はかなり達筆な筆で書かれた山神の石碑で、340号線押角峠のトンネル完成を記念して工定組により建てられたものだ。右には昭和十年五月十九日、左に工定組是置とあり、下部は苔むしているが数人の連名がある。トンネルの正式名称はトンネル入口に掲げられた雄鹿戸隧道だが、このトンネルの真下を通るJR岩泉線のトンネル入口には押角の漢字表記になっている。雄鹿戸隧道は昭和8年(1933)当時、発展が期待された県の重要港湾であった宮古港・釜石港と養蚕、林業が盛んな岩泉町、久慈地方を安全に結ぶために作られたもので、当時335000円の予算をもって工事が開始され、昭和10年に5月16日に完成し、難所とされた府県道岩泉~宮古線押角峠は高低差が129m、距離にして約7㎞短縮された。開通式の日、新里村と岩泉町からは小学生等が列をなしてこの隧道へ赴き踊りや歌、坑門上からは祝いの餅撒きなども行われ盛大な祝賀会が挙行されたという。戦後の昭和50年代まで隧道内の壁面は岩盤が露出し照明もなかったが、現在はナトリウム灯が整備され狭いながらも普通車なら対面通行可能な幅員に拡張されたトンネルになっている。

 次の石碑は山田町豊間根の長内地区にある卵塔形の変わった石碑だ。おそらく石材は川から拾い上げた自然石と思われラグビーボールよりふたまわりほど大きなもので、比較的太い筆跡で萬霊(略字・第三水準)とあることから三界萬霊塔と思われる。文字は石碑の前面いっぱいに書かれ建立年代や施主の記載はない。長内地区最深部には以前十二神山の山腹から湧き出る鉱水を使った長内鉱泉という施設があったが現在は営業していない。ただし隣接する嶋田地区の嶋田鉱泉は現在も営業しておりおおくの湯治ファンで賑わっている。十二神山の山腹には先月紹介した歌のある石碑で紹介した光山温泉岳泉荘もありこの山系には薬水が多い。元々十二神山の由来である十二神将は現世利益と医術や薬を司る薬師如来に使役される武人であり、霊水、薬水に関係が深い薬師如来に由縁するもだろう。

 最後の石碑は震災で一時行方知れずとなった山田町の追分絵入り道標だ。この石碑は幕末頃に山田村と織笠村をつなぐ大槌通りの街道筋である細浦の峠にあったものだ。文字を読めない人のために小船と人で船越を、鎚で大槌を表し、右ハ大槌、左ハ舟越、下部に山田、トミ、カ□(不明)と刻まれている。この石碑は山田町の文化財に指定されており、震災後、流失し行方が心配されたが、付近の人によって無事発見され現在は山田町教育委員会が保管している。

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