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2014/08 歌のある石碑を巡る

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 故人を偲んで墓標や石碑などに生前故人が詠んだ俳句や短歌などを彫り込んだり、故人の偉業や生き様を讃え遺族や関係者が墓碑や供養碑に歌を添えたりすることもある。いずれにせよ歌の刻まれた墓碑や石碑は、戒名と没年のみの墓碑に比べ建立年代からかなりの年月が経っても故人の人となりが伺えるような気がする。同時にそれらの文字配列に日本語の文化や知性、そしてその仕組みに驚かされるような気がする。さて、今月はそんな歌が添えられた石碑や墓碑を巡ってみた。

 最初の石碑は川井元村の公葬地の無縁墓地にある慰霊碑の石版だ。碑文には昭和四十一年八月十四日、当所二貫メ(〆?)坑において職務遂行中殉職された、故菊地一夫君の霊ここに眠る。(以下略)とあり鉱山の事故で亡くなった人物を慰霊したものだ。この碑が建立されたのは昭和41年(1966)11月21日で、三菱金属株式会社細倉鉱業所の名があり末尾に次の歌が添えられている。

  春まだ浅く 月若く

  励み励みし その人の

  しのぶ姿ぞ 今何処

 碑文にある細倉鉱業所は宮城県栗原市にあった細倉鉱山と思われ、江戸時代から初期から鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した岩手県と宮城県の県境付近にある鉱山だ。昭和9年(1934)には三菱金属の経営となり昭和末期まで経営が続いた。江戸時代、鉛は融解した状態で貴重金属を含む鉱石から金や銀などを抽出する触媒のような役割をすることから重要視されており仙台藩では細倉鉱山を庇護したが、明治になり金属市況の低迷で経営は困難だったようだ。

 故人は川井村から宮城県の鉱山に出稼ぎに行き、不慮の事故で命を落とした菊地一夫という人物だ。この死を悼み友人だった小野寺家継という人物が歌を添えものと考えられるが、菊地家、小野寺家とも今は離散衰退したのか供養碑は無縁墓地に並んでいる。

 次の碑は山田町大沢の光山温泉岳泉荘駐車場にある歌碑で碑文は次の通り。

  古館清三

  山師の夢を

  終わらせき

  時 立つ今も  湯の語りぐさ

 この歌は本誌創始者駒井雅三によるもので、古館清三没後、当施設に創始者であった古館氏の石碑を建てようという気運の中、古くから氏と交友関係にあった駒井雅三が歌を詠みこれを石碑としたものだ。駒井雅三によれば戦前、十二神山の山腹で古館氏が発見した放射性鉱物にもしやウランか?と世間は注目したが調査の結果、発見された鉱物はラジウムで山師の夢も湯の湯気とともに消えたという。

 特殊な鉱脈が眠る山は時として人が寝静まった深夜に天に向かって光を発するという。その色で埋蔵される金属の種類までわかるのだと聞いたことがある。当施設の名前でもある光山とはそんな山師による野生の見立てが由来かも知れない。 石碑は花崗岩に赤い御影石を嵌め込んだもので左側面に昭和五十六年(1981)二月建立、光山温泉・主・古館一麿の名がある。

 次の石碑は東日本大震災の津波で被災した藤原公葬地の大井家墓所にある。墓碑は方形で十数基の墓碑の中にあり正面に透覺自網禪信士の戒名、右に寛政六年(1794)、大井要右衛門の名があり、左側面に変体仮名で次の歌が刻まれている。

  生るれバ 死怒(しぬ)る

  毛(も)のと者(は)

  志里奈可良名越(しりなが  ら なを)

  な津(つ)か志(し)哉(や)  銚子盃

 大井氏は元は大伊とも名乗った藤原の旧家で、江戸期には地引網などを営む漁家であった。当時は現在の公葬地附近が屋敷跡だったのではないかとされ、墓に眠る大井要右衛門から三代下った大井家当主は戊辰戦争宮古海戦で藤原の浜に流れ着いた幕軍兵士の首無し遺体を手厚く葬った人物だ。この供養碑は公葬地横の観音堂前にあり、遺体は大井家の前に流れ着いたものと考えられる。

 最後の石碑は常安寺東旧側墓所にある刈屋家の墓碑だ。墓は自然石を使って一段彫り下げた部分に白露菴春園李堂□(下部土中埋没)の戒名、横に結び雁金の家紋と芳瑞永(下部他の墓碑と重なり)左側面附近に嘉永五年(1852)の年号があり、右側面に達筆な筆で次の歌が刻まれている。

  若帰る

  夢や

  見るら舞(む)

  菊の蝶

 刈屋家は芸事に長けた家筋とされ、墓碑の下に眠る故人も歌、戒名などから粋人であったかも知れない。また、この時代は夫婦を同じ場所に埋葬することもあり、結び雁金の家紋の下にある文字は故人の妻、あるいは近親者の戒名であるかも知れない。

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