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2014/06 多くの事故慰霊碑を巡る

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 昭和39年(1964)5月19日午前10時頃、航空自衛隊松島基地から飛び立ち三沢基地で低空飛行訓練を行っていた自衛隊ジェット戦闘機F86Fが訓練を終え帰路につく途中、三陸沖に発生していた濃霧のため宮古湾対岸の月山に衝突し、同機を操縦していた高橋俊夫空尉(26当時)が死亡した。衝突場所は月山頂上から北東約4㎞附近で、事故現場は約800mにわたり残骸が飛び散り遺体もわずかな肉片しか確認出来ない状態だったという。事故当時の三陸沿岸はこの時期特有のヤマセと呼ばれる濃霧が発生しており、低空で侵入した機は月山をかわす間もなく山腹へ激突した。事故原因については計器類の故障、あるいは人為的操縦ミスなど多方面から検証されたが原因不明とされた。

 この事故で亡くなった高橋空尉の慰霊碑が月山北東の仲組地区の引導場に建立されている。碑には殉職者慰霊碑と横書きされ、従7位勲6等故2等空尉髙橋俊夫君之霊、昭和39年5月19日午前10時26分F86Fジェット戦闘機の航空事故により殉職とある。裏面には石碑建立の協力者として、航空自衛隊第6期操縦学生同期会一同、同・第4航空団操縦者一同、同・松島基地隊員一同、同・山田分屯基地隊員一同、自衛隊宮古市募集事務所員一同、宮古市重茂・野崎泰司氏、同・千束彦蔵氏、同・木村武人氏、同・加村英雄氏、宮古市消防団第27分団御一同、宮古市重茂北区御一同とあり、昭和59年9月建之の日付けがある。事故があった年は東京オリンピックがあった年でありちょうど今から50年前の出来事だった。慰霊碑は事故から20年後に建立されている。

 自衛隊ジェット機事故の翌年、昭和40年(1965)3月13日、宮古市と岩泉町の境である笹平林道付近で日大ワンダーフォーゲル部の男性2名が猛吹雪で遭難し命を落とした。事故当時ワンダーフォーゲル部員一行15名は亀岳小学校で行われる地元青年との交流会に向かう予定で岩泉町有芸から宮古市田代の山道を歩いていたが猛吹雪に遭遇し遭難、うち2名が死亡した。

 この事故で亡くなった2名の慰霊碑は田代地区の亀ケ森に向かう道路から岩泉町有芸に至る県道40号線の宮古市と岩泉町との境となる風吹平の道路左側にある。碑はコンクリートのモニュメントで銅板が嵌め込まれ、慰霊碑、石井宏昭(享年20)神奈川県横須賀市小矢部町200、田中国満(享年20)栃木県塩谷郡塩原町下塩原六と名前と年齢、当時の住所が刻まれている。碑文には、両君は昭和四十年三月十三日笹平林道において春期合宿中猛吹雪に遭遇し力尽きて遂にこの地に眠る。とあり碑を建立した昭和40年8月13日の日付と日大ワンダーフォーゲル部、宮古山岳協会の名がある。

 次の慰霊碑は国道106号線、松草笹平地区の道路脇に建つ交通事故の慰霊碑だ。碑は三角錐のような花崗岩で中心が正方形に彫り込まれ5羽の鳥と跪く女神を意匠とした銅板レリーフが嵌め込まれ、その下に明朝体で、五の若きみたま、鎮魂の碑、合掌。の碑文があり裏面には昭和62年7月25日建之の日付けがある。銅板レリーフには昭和61年12月22日この地にねむる。昇天を祈って、飯田ひろみ、山口尚子、山岡幸子、吉沢美和子、田中佐千代の5名の女性の名前がある。またレリーフ右下に作者と思われるT.S光一のサインがある。

 この事故は盛岡方面から宮古へ向かう女性5名が乗車した普通自動車が路面凍結のため対向車線を走っていた大型トラックに突っ込み大破したもので、運転手、同乗者すべてが即死の大事故だったようだ。亡くなった女性らは幼稚園の保母でうら若き20代の女性たちであった。慰霊碑は事故現場に建てれたものだが、その後もこの附近では死亡事故が起きており、冬期間の松草付近は106号線の危険地帯でもある。現在笹平付近には震災復興道路の標識が建っており、道路状況はトンネルや高架橋で改善されるであろう。

 最後の写真は石碑ではなく朽ちて倒れた標柱だ。この標柱は国道106号線小滝~下平地区の106号線旧道、通称・魔のカーブの最深部にある。魔のカーブとまで呼ばれたこのカーブは大きく蛇行する閉伊川の流れに沿って走る約180度のヘアピンカーブで小滝付近の直線と緩いカーブの最深部にありスピードをあげて侵入すると車両が外側に膨らみ対向車と接触したり曲がりきれずに法面に衝突してしまう。このカーブは昭和初期の閉伊街道であり何度も修復と改修を繰り返して整備してきたが、大事故が絶えず起こり多くの犠牲者を出してきた。現在は平成11年(1999)に完成した下平第一・第二トンネルと橋があり魔のカーブでの事故はなくなった。あまりの事故の多さに40㎞/hの速度表示の標識を数メートル間隔で建て『標識の森』の異名もあった。標柱は犠牲者供養とドライバーへの抑止力のため建てられたもので記憶している方も多いだろう。過去を振り返れば多くの事故と犠牲者を出してきた国道106号線、今後は安全で早く快適な道となることを願うだけだ。

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