Miyape ban 01.jpg

2014/04 リヤカーを見直そう

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 広大な面積の割に公共交通機関が貧弱な宮古市においては、自動車が一家に1台ではなく家族にひとり1台という自動車所有率も珍しくない時代だ。だから時給も所得も低いこの宮古でも4人家族で車4台という家も結構あったりする。経費の安い軽自動車とは言え一般家庭で車が4台もあったら支払いもバカにならない。それに加えて携帯やスマホなどの支払いも重なり結局は「ナンボーカセーデモ/いくら仕事をしても」庶民の手元にお「ゼネ/金」は「ヒトヅモ/これっぽっちも」残らない。

 自動車や携帯電話などの技術革新の速度は目まぐるしくちょっと前なら夢物語とされたことが実現化する時代となった。その昔、大勢の人で賑やかだったお江戸はその忙しさから『生き馬の目を抜く』と言われたが、現代はこのド田舎宮古でさえ「マカマカッテット/ぼやぼやしてると」「トソリ/年寄」は「マナグ/眼」どころか「マルコデ/すべてひっくるめて」年金を「モッテガレル/第三者に取られる」時代なのである。が、しかし、便利な時代とは言えあまりにも世知辛い世の中になってゆけばゆくほど不便でも、ほんわかして「ノホホーン/ぼやっとして」いた時代が懐かしく愛おしい。しかもそんな時代に大活躍していたのに時代の流れに押し流され今は見かけなくなった過去の道具に意外な利点やすばらしい先進性があったりするものだ。今月は最近見かけなくなったひと昔前の万能運搬機・リヤカーについて見て行こう。

 物を「クパル/運ぶ」道具は昔からあったがリヤカーは画期的発明であった。リヤカーは日本古来の小口運搬道具である大八車の進化版で、鉄製パイプフレームにボールベアリングで回転する車輪がついていた。このボールベアリングが重要で、初期の大八車のように車軸式でないため積載時における最初の引き出しが「カルコクテ/軽くて」容易なのであった。加えて車輪もリムとスポークで成り立ちゴムのタイヤで転がり抵抗も軽減されるし適度なクッションもあり荷崩れも防いだ。名前の由来は当時オートバイの横に乗車席を追加装備したサイドカー(側車)から、自転車などの後ろに連結装備したことからリヤカー(後車)と命名された。道路交通法上では自転車同様の軽車両とされ、したがって登録やナンバーの取得は不要だし免許も要らないから子供でも操作可能だし、路上に止めても駐車違反もない。もちろん自動車が進入禁止で入れない場所や道路でも走行可能だ。そして何より人が引けば燃料費はゼロだ。

 僕がまだ子供だった昭和40年代にはリヤカー全盛の時代で物売りのオバサンから、黒くてごつい自転車で牽引されるリヤカーが街中を普通に走っていた。そんな時代だったから小学校の運動会の競技に父兄参加のリヤカー競争などもあった。田舎から「イズゴ/いちご」や「モロゴス/とうもろこし」を売りにくるおばさんも、「イズバ/魚市場」から魚をもってくるおじさんも、花や「ダンゴモーズ/団子や餅」を売るおばさんも、鉄くずや「ビンコ/瓶」を買ってゆく「ボロヤ/廃品回収業」のとーさんも、みーんな運搬手段はリヤカーだった。だが人力で引くリヤカーは坂道に弱く、下り坂道では引き手自身がブレーキとなって、上り坂では「ボロヤ」のとうさんのように廃品を満載した「オボデェ/重い」リヤカーを「アセガギステ/汗をかきながら」引っぱらねばならぬ場合もあった。

 リヤカーの引き手「サキパス/先端」「マンナガラヘン/中心あたり」には穴の空いた連結用ステーが溶接されていた。この穴を牽引車側の軸受けフックに挿せば、即・小口運搬車の完成だ。牽引車は前述した黒いフレームのごつい自転車か、昭和40年代半ばにはホンダのスーパーカブなどが活躍した。しかし、当時はまだ市内も未舗装路が普通であり、でこぼこ道でリヤカーの固定式フロントスタンドが「ツッカガッテ/つっかえて」思うようにスピードを出せないため自転車やバイクでリヤカーを引くのは大変苦労した。それでも自転車で空荷のリヤカーを引っぱっているのを見かけると「ワラスガドー/子供らは」乗せて乗せてとせがんだりした。

 その昔、何かと大活躍したリヤカーは主に小口運搬として使われたが、商品を売る販売移動店舗としても使われたし、調理器具を積み路傍で食べ物を調理して売る屋台としても使われた。現在でもその姿を残すのは冬期間に宮古魚菜市場脇で蒸かし芋を売っているリヤカー屋台だ。昔はこのような芋売り屋台は複数あって冬になればリヤカーに薪ストーブを改良した蒸し器と燃料の薪を積んでピーピーと白い蒸気をあげながら「オゲンセー/お買い上げ下さい」と口上しながら街を流していた。また、芋以外では「きんつば」とか「オヤキ/今川焼きの変形」と呼ばれるあんこを入れた和風焼き菓子を売る屋台があった。これらの屋台は蒸かし芋の屋台のように町を流すのではなく、移動店舗でありながらいつも同じ場所に来て出店していた。僕の記憶では子供時代でうろ覚えだが今の中央通りの高橋交差点のバス停(今はない)附近と、築地にあった昭和館附近や宮町の旧裁判所付近で営業していたのを覚えている。当時の「おやき」は現在見かけるような円筒形で角がある太鼓型の形状ではなく大福餅のような形で、素朴で甘さ控えめなこしあんが入っていた。

 リヤカーが軽トラに姿を変えて久しいが、免許なし、燃料なしで動かせるリヤカーは災害時には大きな強みだ。白黒映画の初期「ゴジラ」などでは怪獣襲来に庶民がリアカーに家財道具を載せて避難するシーンが見られる。旧田老町時代の津波訓練では「トソリ」をリヤカーに乗せて避難する光景が報道されたりしていた。東日本大震災時にリヤカーが活躍したかどうかはわからないが、今後、何かの備えには町内に1台はリヤカーがあった方がいいかも知れない。災害時でなくとも地球に優しい小口運搬機として何かと使い道はありそうだ。

 そういえば震災時、燃料も手に入らず取材はもっぱら自転車だった。あの時は名ばかりの文化生活の脆さを嘆き自転車の利便性を改めて実感した。次はリヤカーの時代だ。僕は密かに太陽電池で動く電動アシストリアカーの登場を待っている。

ためになる宮古弁風俗辞典

てあます

手に負えない、持てあます。他人の言うことを聞かない人。

普通の状態では手に負えないため、本来手をかけるべき状態なのに手の施しようがなく、手が「余る」=「放棄」している様。人様には迷惑をかけるなと何度教えても、やることなす事他人に迷惑をかける人。そうではないと説得しても、聞く耳持たずで忠告すら聞き入れない人。自分がしでかした仕事のへまは棚に上げて上司や会社の悪口を言い、しまいには己が勤める会社が不利なるようなことをする人。などなど、世の中には「テアマス」とされる人はいっぱいおります。それでも昔はわんぱくでいたずらばかりする元気な子供に半分比喩をこめて「テアマスニカガッテハ…ハァ」と憂いでみせたが、最近は汗をかいてわんぱくする子はかなり少なく、知能的でずる賢く、大人を簡単に騙す別の意味での「テアマス」な子供が多くなった。またこれと同時に、都合がいいときだけ「ボケ」を演じる「カスケー」老人も多くなって、金がなくなった、誰かが取ったと大騒ぎを起こしては周りから「テアマス」にされたりする。個性は大事と教育されてきた割に日本人は非個性を美徳とし、たまに成功者の異端児振りを讃えたりするが「テアマス」という言葉が活かされた時代は古き良き時代なのである。

表示
個人用ツール