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2014/03 少年時代の遊び場あれこれ

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 高校を卒業してから「スパラグ/しばらく」は宮古を離れ一人前に都会で暮らしたが、その後は宮古へ戻り市内を転々としながらかれこれ30数年にわたりこのまちに住んでいる。色々と家庭の事情もあって「ワラスナーコロ/子供の頃」から頻繁に引っ越しを繰り返してきたが、その度にその地区ならではの遊び場を知った。横町に住んでいたのは幼少期だが、横町・新町界隈の遊び場で思い出されるのは「オスンザン/御新山」であろう。「オスンザン」は横町の裏山中腹にある神社境内の総称でそこには新山神社と出羽神社の二社のお宮と大欅が聳えていた。標高はさほどないが「ガッケ/急斜面」になっており展望はまずまずでむき出しの斜面は子どもたちの冒険スポットだった。「オスンザン」へ向かう途中に小さな個人持ちの社があって、そこから山を登り尾根に出ると「クビズカ」と呼ばれた石碑があった。当時、この石碑は斬首された人を埋めた墓だとまことしやかに囁かれていたが、実際には石碑の碑文は「心」とあり「首」とは関係ないようだ。この「クビズカ」から道沿いに北西へ歩いてゆくと宮古小学校体育館の裏山を通って「天狗荘」へと道が続く。少年時代の噂によれば「天狗荘」という不気味な宿に怖いヤクザがいて不用意に近づくと鉄砲で撃たれるということだったが誰がそんな噂を流したかは判らない。おそらく「天狗荘」とは当時、小沢の奥にあった鉱泉を湧かして入浴させた「天狗の湯」であったろうと思われる。加えてこの湯においてそのスジの方々による花札賭博などが行われたかどうかはわからない。

 藤原に住んでいた頃はまだ藤原須賀も埋立されていなかったから、家を出ればすぐに藤原須賀の松原だった。防風林である松原を過ぎればふかふかの砂浜で、夏は裸足だと足が熱いから波打ち際まで全力で走った。この須賀でよくやったのは「テヌゲー/手ぬぐい」を使っての「ドンドマッコ/丸くて小さい動物の総称」取りであった。二人ひと組で「テヌゲー」を広げて寄せる波を掬っては「ドンドマッコ」を捕まえた。「デッケーナーミコーコ/大きな波来い来い」「チッチェナーミコーコ/小さい波来い来い」と歌いながら飽きもせず波を掬ったものだ。藤原須賀と磯鶏須賀の境は「イッサキパナ/石崎鼻」と呼ばれ、小さな沢があって砂浜に流れ込む水路には砂鉄がいっぱいあった。震災当日、石崎の法面が土砂崩れして45号線が片側通行になったが、これは法面下に今は埋まってしまったが当時の沢が地下水脈として流れていたからであろうと思う。

 愛宕に住んでいた頃は「アダゴザン/愛宕神社」から中里団地手前で西側に降りて水道局脇の「ハッコウダイ」へ行った。ここには「錬成館」と呼ばれる道場があって当時合気道や柔道の練習が行われていた。「ハッコウダイ」は「八紘台」と書き神武天皇のお言葉が元になっている名称だというのは大人になってから知った。「ハッコウダイ」は戦時中に空襲警報に使われたマグネット式の大型サイレンであり、これを戦後に火事を知らせるサイレンに転用していた。周波数が変化しながら不気味に鳴り響くこのサイレンの長さと回数が火災の被害規模を表すという噂があったが真意は不明だ。「ハッコウダイ」から一端「オグラノサワ/御蔵ノ沢」を降りてまた西側の山に入り尾根沿いに行けば「十字架山」に着いた。ここには十字架を模した異教徒の墓が数基あった。中世時代の舘跡でもあり尾根が人工的に切り開かれており格好の遊び場なのだが、ここは沢田方面から登ってくる一団と鉢合わせになり、双方の人数にもよるがガキ集団の中に緊迫した空気が流れるのであった。当時は少年であっても自分の地域に誇りというか自信を抱いており他地区からの外来者に対して敵対する傾向が強かったし、そんなシーンで「オッペ/尻尾」を巻いたり友好的な態度をとっていたのでは少年であれ年齢的縦社会を束ねることは出来なかった。だから、両者とも本格的なケンカはしたくないけれど、やるならいつでもケツを捲る覚悟で意気がっていたのである。同じように夏保峠を回って忠魂碑の広場で遊んでいると光岸地の一団がやってきて、「オメガンドーハ、ダレササベッテ、アソンデンノンヤ?/お前らは誰に断ってここで遊んでいるんだ?」と凄まれるのであった。

 小山田に住んでいた時はやはり「エントヅヤマ」が遊び場の代表だろう。有害な煤煙を高い煙突から排出し洋上遙かへ飛ばしてしまうという大煙突であったが、昭和40年代半ば全国的な公害問題が浮上し、大煙突をもつラサ工業宮古工場も排水や煤煙の問題に直面していたようだ。だが、そんな事情も知らない子供らにとってラサの煙突は男の子なら一度は真下から見なければならないモニュメントだった。見上げると覆い被さってくるような錯覚を覚えるあの感覚は大人になった今でも覚えている。「エントヅヤマ」への最短ルートは現在のNCRI宮古工場裏附近の急斜面をクライミングで登り、精錬・肥料工場裏を眼下に尾根沿いの剣ヶ峰を行くもので結構怖かった。「エントヅヤマ」への正式な道は現在の小山田トンネル入口付近から登る坂道だが晩年は立入禁止となった。「エントヅヤマ」に付随する冒険ゾーンはラサ工業の防火用水を溜めた「ヤマプール/山プール」であろう。ここは沢をダム状に堰き止めた巨大な池で、誰が放したのか知らないが大きな緋鯉がいた。少年たちは緋鯉は無理でもフナを釣るためせっせとこの「ヤマプール」へ通った。

 この他にも鍬ヶ崎の「サグラチョウ/熊野神社北東側の沢」や少年時代は「セントグ/千徳」で暮らしたから、様々場所を遊び場とした。それは閉伊川沿いだったり宮古湾だったり、工場跡地や洞窟、神社や寺院だったりもした。「クズスタ/靴下」が真っ黒になるまで遊び、家に帰ってメシを食って寝れば翌日またそこら中を「ハッサリッテ/走り回って」遊んだ。その毎日を繰り返し、いつしか大人になった。いつでも腹が減っていて大勢の友人や年上、年下の連中と笑い合ったあの時代が懐かしい。

ためになる宮古弁風俗辞典

へっつぉぬげ

人として肝心のヘソがないという例え。臆病者、小心者、意気地無し、弱虫。

身体の中心にあり急所でもあるのがヘソだ。ヘソは母体と胎児をつなぐ生命線でもある。しかしオギャァと生まれこの世の空気を自分で呼吸するようになった瞬間からヘソは過去のものとなり、人は個人を形成し生命体として一人で生きて行くことになる。このように動物にとってヘソは無くてはならない部分であり、ヘソこそがほ乳動物である証しでもある。このヘソは通常、お腹の中心にあるのだがこれが左右どちらかにズレている場合、普通でないとされこれを「ヘソマガリ」と呼ぶ。この人たちは通常の意見には同調せず、同調しないことを見越してずらした解答をしてもやはり同調しない。すなわち「ヘソ」=「中心」がズレているのだ。中心を見極める重要な部分をヘソとするなら、それが無いというのは意気地がない、そして弱虫ということになる。従って「ヘッツォヌゲ」とは「ヘソ」=「中心」=「意地・根性」が欠落した臆病者のことをさすのである。大事な時に腰が引ける「コシヌケ」と同様の意味合いだが、言葉の構成は「ヘッツォヌゲ」の方がより臆病に感じる。

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