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2014/01 元宮古市長千田眞一の石碑

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 震災翌年の平成24年10月7日の岩手日報訃報欄に次のような記載があった。元宮古市長の千田眞一氏が3日午後5時6分、肺炎のため宮古市内の病院で死去した。自宅は同市新町2の6。火葬と葬儀は故人の遺志により、6日までに近親者のみで執り行われた(以下略)

 千田眞一氏は大正5年保久田に生まれた。昭和10年に県立宮古水産学校卒業後、徳島県立海部郡立牟岐青年学校教諭、同校漁村青年道場指導員となった。その後東京の全国漁業協同組合連合会(全魚連)に勤務した。昭和18年には陸軍に徴用されたが、終戦後再び全魚連に復帰。昭和22年、鈴木善幸衆議院議員立候補に参画、爾来、23年間にわたり鈴木善幸議員秘書、秘書官として活躍。昭和46年、岩手県議会議員山崎権三(宮古)死去により、岩手県議会議員に立候補し当選、以後昭和54年まで岩手県議会議員、自民党県連幹事長などを歴任した。昭和56年、菊池良三宮古市長の急逝を受け、県議3期目半ばで宮古市長選挙に出馬、当選し昭和62年まで2期8年にわたり市政の舵を取った。その間、三陸鉄道開業、サーモンランド構想、県立宮古短大(当時)の誘致、県立宮古病院移転など宮古市発展の実績を残してきた、近代宮古におけるリーダー的人物であった。

 今月はそんな元宮古市長千田眞一氏を偲びその功績を顕彰するため、昨年9月に発行された追悼集『清心』を参考に、千田氏の名が刻まれた石碑や定礎を巡ってみた。

 最初の写真は崎山の社会福祉法人若竹会・障害者支援施設・わかたけ学園敷地入口にある、同会及び育成会の記念碑脇に建つ黒御影石の標柱で、若竹会ありき 宮古市長 千田真一書とある。碑には年号や詳細がないことから、記念碑建立に合わせて建立されたと思われる。記念碑には昭和39年10月の特殊学級設置からの同会活動の沿革、昭和63年9月1日の記念碑建立の経緯が刻まれている。また、記念碑横には同年11月に昭和63年度岩手日報文化賞社会部門受賞、平成元年6月の全国ボランティア大会に於いて厚生大臣特別賞受賞を記念し建立された標柱を含め3基の石碑が建っている。

 次の石碑は震災による津波被害で現在休校中の宮古市立千鶏小学校昇降口にある石碑だ。石碑には達筆な書体で、海に鍛え、緑に学ぶ、千鶏小学校グランド拡張、平成元年四月吉日、宮古市長千田真一とある。この碑は碑文にあるように同小学校の校庭を拡張した記念に地区民等の手により建立されたものだ。工事が完了し記念碑を建立することになったが碑文が浮かばず、当時の同小学校PTA会長の馬場利夫氏が千田氏に相談しこの碑文となった。千田氏談によれば盛岡からの帰り、区界付近で考えついたという。海と山はつながっており後の宮古市の市民憲章の「森・川・海」に通じる意味深い碑文となった。

 次の石碑は、沿岸住民の悲願であった三陸鉄道開業に伴い三鉄宮古駅に建てられたもので、自然石に御影石のプレートが嵌め込まれ、上部に三鉄のロゴマーク、三陸鉄道いま成るの題目、鉄道開業までの歴史と道程が手書きの書体で刻まれ、側面に宮古市長千田真一の名がある。

 最後の二枚は上部が五月町の宮古消防署入り口脇に据えられた御影石の定礎のプレートだ。碑文は手書き書体で、定礎、宮古地区広域消防組合、管理者、宮古市長、千田眞一とある。その下は被災した藤原ふ頭の公園内にある石碑に嵌められたもので、縣勢発展の門、宮古港、宮古市長、千田真一書とある。

 千田氏は石碑の他多くの漢詩などの書も残しており「真一」「眞一」を使い分けていたようだ。また、特徴がある文字をしたためる人物であり、署名がなくとも千田氏の文字と思われるものも多い。歴代市長の中でもかなりのモニュメントに文字を残しており今回紹介したもの他にまだまだ石碑やプレートが存在する。

 二大勢力が決死の火花を散らす政争の町と呼ばれた昭和の宮古市において最後の昭和魂を見せつけた千田宮古市長。独自の構想を語るとき独特の語り口には気骨な男らしさとオーラが漂っていた。組合集会にたった一人でハンドマイクで立ち向かったり、夏祭で浴衣姿で市民とともに踊ったり、サーモンハーフマラソンの前身である市民マラソンに一般ランナーとして参加したりもした。禅や漢詩を愛し、行動力、パフォーマンスも一流の政治家であったと思う。

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