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2013/11 津波記念碑と慰霊碑

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 震災から2年が過ぎた。もう3年目の日々を過ごしている。誰も予想していなかった大地震による大津波、そして未曾有の大災害に驚愕した。人が長年かかって築いてきた歴史や文化、家屋や財産があっけなく瓦礫の山と化した。多くの人命が奪われ自らも被災し打ちひしがれた人々は、当初全国からのあたたかい支援を受け復興に向けて立ち直るべく歯を食いしばって起ち上がった。しかし、震災から時が経つにつれて、現実は復興を阻む様々な厚い壁と時間との戦いであることに気づいた。あれほどに壊されたまちが安全で安心して暮らせるふるさとになるためにははるかな時間と膨大な資金が必要なのだ。それはもうみんなが知っていて、元通りにならないこともわかっている。けれど復興の基礎となるとは言え港湾と道路の整備ばかりが先行し被災地に住む人々の希望や夢はどこか置き去りあれているような気がする。ここからが本当の険しい道なのだが、人々の心の中は疲れと諦め、そして祭の後のような寂寥感が広がる。さて、そんな被災地にはここ数年で津波来襲を後世に伝えるための記念碑が多く建立されている。本誌でも別コーナーでそれら津波記念碑を何度か紹介してきたが、今回は最近建てられた津波関係の石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は田老青砂利地区、田老漁港から旧三王閣へ向かうつづら折りの坂に建てられた記念碑だ。この記念碑は津波到達地を後世に残そうと宮古東ロータリークラブ(山口正樹会長)が市内各所に建立しているもので、最終的には十数ヵ所に同様の記念碑を建てるという。一番最初に宮古駅前の岩手銀行駅前支店脇に建立し現在までに8基が建立されたという。記念碑は石碑と言うより石柱の形で同一デザインとなっており、正面上部にロータリークラブの歯車のロゴ、2011年3月11日、津波到達地と刻まれ、裏面に国際ロータリー第2520地区、提唱宮古東ロータリークラブとある。左右側面には石碑建立を支援した全国の国際ロータリークラブの番号と名称、そして敷地提供者の名が刻まれている。

 田老青砂利地区の石碑には第2710地区、設置支援下関ロータリークラブ、敷地提供者、宮古市の文字がある。このように石碑は正面と裏面の文字配列を共通とし、左右側面の文字が各石碑で異なる形となっている。それを踏まえて次の写真が女遊戸地区にある同様の石碑となるが、左右側面は国際ロータリー第2640地区、設置支援下関ロータリークラブ、敷地提供者、部落長・前川正幸となっている。

 女遊戸地区の石碑は海岸から800~1000メートルほど離れた地区の中心あたりで海抜もさほど高くはない。しかし、田老青砂利地区の記念碑は海抜50メートルほどの場所であり遙か沖から押し寄せた同じ津波のエネルギーでも海岸の形状や湾口の向き海底の形によってその高さが違うことがわかる。津波到達地点が示すものはその土地の津波に対する防御のガイドラインであり、同時にそれは海岸線の土地によって様々だという警鐘でもある。

 次の石碑は日出島地区にある記念碑だ。正面に横書きで平成23年3月11日東日本大震災、大津波記念碑とあり、津波がこの地点まで到達し、犠牲者10名、家屋損壊4棟の他漁港も甚大な被害となった旨が刻まれ、大付、日出島地区民一同とある。石碑脇には津波で流され後に漁港に置かれていた弁財天の石宮が置かれている。

 最後の石碑は鍬ヶ崎熊野神社境内にある鎮魂碑だ。碑は神社本殿下の石段脇に建立されている。正面右に東日本大震災、中央に鎮魂の碑、左下に平成二十三年三月十一日、岩手県宮古市とある。石碑裏にはひまわり会有志の名がある。

 震災の他多くの災害に関する記念碑、慰霊碑はその災害があった日を石碑に刻む場合と、災害とは別に石碑を建立した日を刻む場合があるようだ。過去の津波や火災関係の石碑を見ても同様で災害のあった日を刻む場合も多い。しかし、石碑の日付は遠い将来重要な記述となるから、個人的ではあるが今回紹介した各石碑ともできれば建立年月日を刻んで欲しかったと思う。現代は石碑などより優れた伝達方法があるのかも知れないが、石に記録するという時間の長さを踏まえ、石に文字を残す人の知恵は歴史の基本ではないかかと考える。

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