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2013/10 仏教と信仰。祖師西来意

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 仏教において寺のもつ基本機能は人の持つ信仰心の中にある先祖崇拝であろう。その中において一般的に先祖を意識するために不可欠なものが墓であろう。当初墓は亡くなった仏に対して個別に作られていたが、明治以後埋葬の形や法律などの整備により土葬などで埋葬することが市町村別ではあったが法律で規制された。それにより火葬が一般化し遺骨の形で埋葬するようになり、墓も一体ずつ戒名を刻む形から代々使えるその家の骨堂へと変化した。図式的には墓→骨堂→先祖崇拝であり、先祖を繰り返し供養し続けることで穢れを持った仏は次第に浄化されついには、その家を特定して護る先祖霊へと神格化してゆくと考えられている。現代においてはほとんどの人がこの形を信仰として捉え、お題目こそ違えど曹洞宗や真言宗など各宗派の経典や教義はほとんど浸透していない。この背景には檀家と称される寺を支える人々が、住職の役割を葬儀や追善供養の司祭者として認識しているからであろう。寺の存在が敷地内に墓所を持ち、葬式を執り行い、先祖供養をする会場としてあるのであれば、利便性や快適性を追求すれば、近年、専門の葬祭会館のような施設が増えているのも理解できる。

 先祖信仰の底辺にあるものは先祖がもたらす血縁者への守護と恵みであろう。これは往々にして稲作と融合しており、宗教そのものが農業、政治などの社会集団と結びついているのがわかる。先祖は供養され最終的には歳神となり家を護り、作神、田の神として豊穣を約束するのである。葬式の形や埋葬の形、そのしきたりや決まり事などが時代によって変化しても、先祖に願う人の気持ちは同じで年中行事の中に取り込まれているのである。さて、そんな近年の信仰事情ではあるが、今回はそんな先祖信仰に関係した石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は松山の出羽神社参道付近の墓所にある石塔婆のような石碑だ。追善供養のために建立したと思われ、中央には卍、修逆(逆修・横書)、祖師西来意、敬白(横書)とあり、背面に 有路地より無路地に

      通ひとやすみ

        雨降らばふれ

          風吹は吹

と古歌が刻まれている。下には荷人、重兵衛、弥七郎、甚吉、大久保半左エ門の連名があり、大久保なる人物によって建立されたものだろう。逆修とは自分より若い年で亡くなった仏を供養したり、存命のうちに自分の戒名を刻み供養することを言う。碑文の祖師西来意は仏教の始祖がインド、中国を経て日本に渡ったというような意味をもつが、禅においての公案とされ禅特有の難解な意味を含む場合もある。

 次の石碑は千徳の沢地区にあり、中世以前にこの地にあったという善勝寺の前身とされる寺跡に近年建立された石碑だ。碑は方形の御影石で正面に古寺跡地、善勝寺発祥の地とあり、右側面に平成十七年八月建立、左側面に題字・善勝寺十八世葛修一、石工・成ヶ沢賢治・寄贈の文字がある。善勝寺は中世の時代の閉伊氏の流れである千徳氏が築いた千徳城(山城)の麓に建立した寺ということになっているが、その創建に関してははっきりした記実はないが『千徳城興廃実記』などには山城の懐に寺があった記載はあるようだ。写真は平成18年に千徳公民館主催で行った千徳城散策でのものだ

 次の石碑は現在の善勝寺山門にある地蔵尊だ。この地蔵尊は当初善勝寺に併設されていた火葬場脇にあったもので、善勝寺の大檀家でもある盛合家をはじめ檀家らが善勝寺順禮を提唱しそのシンボル泉徳地蔵尊として昭和54年に建立したものだが、近年、火葬場老朽化・撤去に伴い近年山門脇に移動したものだ。

 最後の石碑は玉王山長根寺参道石碑群にある光明真言塔だ。光明真言は大日如来に帰依する密教の聖句であり、この真言を唱和することで病気や禍を除き、英知弁才福楽長寿を得るとされる。また、この真言を百万遍で唱和し土砂を加持祈祷すれば、仏は供養され亡者の罪は消え安楽浄土へ往生できるという。碑は上部に胎蔵界曼荼羅の梵字があり明和五年(1768)壬七月の日付と拓儀建立とある。拓儀はおそらく当時の長根寺住職の名と思われる。しかし、残念ながら現在この石碑は倒れた状態で碑文は読めず、路傍の草に覆われている。

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