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2013/09 川井地区の石碑順禮

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 今月も先月に続いて川井方面の石碑を紹介する。今回は川内地区を中心に新旧様々な石碑や産業遺跡を調べた。まず最初は国道106線川内から岩泉町釜津田方面へ向かう林道の峠付近にある林道整備開通記念碑だ。碑は峠から夏屋放牧場向かう三叉路にあり、ふるさとの未来を拓く、幹線林道と大きく刻まれた碑と、建設詳細を記した碑の二基でコンクリートの台座に建っている。碑の裏には林道沿線の軽米町、山形村、葛巻町、岩泉町、川井村の各首長の名前があり、副碑には林道の詳細が刻まれている。それによると林道の名称は緑資源幹線林道八戸・川井線、穴沢、上外山区間32・4粁米(㎞)で石碑裏の各行政が主体となった、独立行政法人・緑資源機構により、昭和49年6月4日に着工し、平成17年十月吉日に完成している。完成までゆうに31年の歳月が流れておりその間の経済物流の変化、自然保護の観点の変化や畜産業の衰退などもあったにもかかわらず、完全舗装の林道が完成している。  夏屋の地名由来はその昔、遠野方面から人が入植し夏にだけ簡易な家を建て農耕のため住み、冬には山を下りたというものでこの地が厳しい自然環境と交通難所であったことを表す。

 次の石碑は箱石地区と川内地区の中間にあたる蟹岡地区の民家入り口にある養蚕顕彰碑だ。碑には達筆な書体で云(ここに)誰(だれ)恩(めぐむ)之(これを)の漢詩的表現の4文字がある。左には大正三年七月十六日、發起人・瀧野六太、新谷萬太郎、吉田市十郎、佐々木亀之助、古里徳太郎の名がある。右には長野縣南安曇郡梓村、為・養蠶教師・齋藤久一翁夫婦・門第中建之とあり、下部に新谷重太郎など14名の連名が刻まれている。大正期にこの地に入り養蚕を指導した長野県の夫婦を讃えた石碑だ。

 次の石碑は川内地区にある曹洞宗の寺院流月院境内にある牧庵鞭牛に関連した石碑だ。碑は四角錐で前面に牧庵鞭牛和尚修道碑、永平悟由応嘱とあり背面左右側面にかなりの長文で石碑建立由来が刻まれている。碑文はこの地の地理的形状、歴史的背景などを語り、徳川吉宗の時代に、和井内村に鞭牛和尚が生まれ、その後出家し僧侶となり晩年を道路改修に捧げた歴史を語っている。この長い碑文の最終行附近に「明治三十三年庚子(かのえね)の夏、有志の徒、閉伊の辺、流月庵の側に碑を建てて記を予に乞ふ」の文字があり石碑の建立年がわかる。また、碑文の最後には次の二首の歌が添えられている。

 世を思ふ

   君かまことにあら山の

     こししき岩も うちなひきつつ

 馬くるま

   ととろく御代となりにけり

    君がいさをを 石すゑにして

 最後の写真は石碑ではなく鉄道遺跡でもある、JR山田線川内駅構内の蒸気機関車用の給水塔だ。川内駅は山田線宮古~盛岡間の中間点附近にお駅でその昔、峠勾配がきつくスイッチバックで登った平津戸のひとつ手前の駅だ。山田線のディーゼル化は昭和45年で、それまでは山田線主要駅には引き込み線があり石炭庫や給水塔があった。写真の給水塔には1955・10の文字を焼き付けたタイルが嵌め込まれ昭和30年に新築された給水塔であることがわかる。内部には青色の鉄パイプが配管されており、機関車の上部に蛇口を回す回転ノズルはないものの今でも給水できる状態のようだった。このような給水塔は宮古駅構内にもあったが近年撤去されている。

 昭和19年3月11日、山田線平津戸~川内間で雪崩による貨物列車脱線事故が起こり乗務員の機関士1名が殉職した。事故は前日に釜石製鉄所からの軍事物資の鉄を満載して盛岡へ向かった宮古機関区所属の機関車C58283が牽引する貨物列車が空車で盛岡から宮古へ回送する途中に発生。列車は2メートルを超す積雪のため立ち往生、平津戸駅で一夜を明かしたのち宮古へ向かい、雪崩によって押し流された鉄橋から脱線、約30メートル下の閉伊川に転落した。この事故で列車に乗務していた加藤岩蔵機関士(28歳・福島県出身)が殉職、機関助士の前田悌二さん(当時19歳・宮古市)がかろうじて一命をとりとめた。

 重傷を負った機関士は二重事故を防げと機関助手を向かわせたのが川内駅だった。二時間後、保線員が脱線を発見、二人は救助されが加藤機関士の容態は悪化、前田助士の手を握ったまま息をひきとった。平津戸・川内間の除雪は地元青年団が行い、宮古から医師看護班を乗せた列車が川内駅に着いたのは夜中の11時を回っていた。 この事故や経緯は戦時下であったため報道されなかったが、戦後、この手記が映画化され『大いなる旅路』として上映されている。

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