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2013/08 お盆帰省と夏の成人式

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 梅雨が明けたと思ったら「ハー/もう」8月であっという間にお盆「ダガネ/ですね」。震災で「タイスタ/ずいぶん」仏さんがあった年からもう2年と半年。あの時は初盆もろくに出来なくて「ブゾーボー/不作法・失礼」しました。亡くなった方にもご先祖様にも「オモッサゲナゴゼンス/お申し訳ございません」。今年こそ震災前のように供え物「タンネーデ/携えて」「オンツァマ/おじさん」だの「オッパサン/おばさん」を拝みに「イゲンスッツケーニ/行きますから」待っていて「クタサンセ/くださいませ」。と、まぁそんな雰囲気で今年も日本全国人族大移動のお盆シーズンがやってくる。

 今はもうこの土地で「オヅヅーデスマッテ/落ち着いてしまい」この時期に溢れる人や車を見ても定例行事をこなすように何ら感じなくなってしまったが、はるか昔、昭和50年代には自分も都会へ憧れて上京し、盆と正月には帰省客の一団と化して夜行列車を乗り次ぎ「ボクサッテ/ぼろぼろになって」このふるさと「ミヤゴマズサ/宮古に」帰ってきたものだ。その当時は東北新幹線など夢のような交通機関はなく特急でも上野~盛岡間が6時間、夜行の急行で8時間ほどかかり、しかも、盛岡から宮古へは片道2時間30分という山田線のオマケがあり、都会と田舎には絶望的な時間の壁があった。だから上手い具合に日曜日が連結すればいいが、単なる3日の盆休みでは前後の移動に「アンマリゲー/あまりにも」時間がかかりまともに実家で休めるのはほんの数時間しかないのだった。これじゃあ、都会の疲れをリフレッシュするため帰省しても逆に「コエーベーテ/疲れるだけで」しかも、当時の国鉄が儲かるだけで、田舎者にとっては「キッシャツンテース/汽車賃の無駄」の大移動であった。それから見れば現在の東京~盛岡はたったの2時間20分だ。なのにたった91㎞の盛岡~宮古が2時間28分ってのは問題だが、昭和50年から約30年の歳月は最速で4時間40分ほどで宮古と東京を結ぶまでになっているのだ。

 ついこの前まで「オラーワガンネー/自分はわからない」とか「サギニイグベス/先に行こうよ」などと生活の100%が宮古弁だったはずなのに「オデラメーリ/寺参り」で会った同級生は宮古じゃ、しかも寺でその格好じゃ浮くだろう…と思う何だか訳のわからない服を着ていて「おっ◎◎◎じゃんか、久しぶり~、おれ?おれは横浜なんだけどさ…」などと変な服装と変な都会言葉で話しかけてくる。「で、おまえ、横浜で何やってんの?」と聞くと「ああ、おれね、内装関係の仕事でさ…、向こう帰ったらさ、伊勢佐木あたりで飲もうよ」などと本当に「ハンカクセー/半可臭い」。しかも高校時代はさして「ツカスー/親しい」わけじゃなかったはずだ。と思えば、高校時代はいつも髪をふたつに結って「デンビ/額」丸出しで誰もが射程にも入れなかった女子が、もの凄い化粧とセクシーな服で大化けしていたりする。懐かしさと驚き、そして地元に残った友人たちのやけに斜に構えた大人びた「サベコド/受け応え」など、時間とお金を浪費しての帰省はやはり無駄ではなく、発見と驚きの連続なのであった。

 そして、そんな若者たちに成人式の招待状が届くのであった。当時の地方行政のほとんどが都会へ出た若者が帰省するお盆の時期に成人式を挙行していた。そんな昭和53年夏、僕も晴れて成人となった。しかし、帰省した僕の家にはその招待状は届いていなかった。誤って「ナグスタンデネーノ/無くしたんじゃないの」と家族に聞いてもそんな筈はないという。その状況で、当時、完全に斜め45度的の人生観しかなかった僕は「オラ、イガネー/おれ、行かない」と「コツケデ/ヘソを曲げて」式には行かず寝て過ごした。翌日、近所の同級生の従兄弟に聞いたら式はてんで「オモッサグナガッタ/面白くなかった」が式が終わって夜は中学、高校の同級生たちと夜の街に繰り出し明け方まで飲みまくったそうだ。それを聞いて「スッペースター/失敗した」と後悔したが後のまつり、外れクジではないが当たりクジを一生引けない人生はこのあたりから確定的なものとなっていた。

 ところでお盆は仏教行事の盂蘭盆会という行事で基本的に先祖への追善供養がメインだ。だが、お盆にはもうひとつ施餓鬼という大切な概念がある。施餓鬼は文字通り「施す」「餓(飢)えた」「鬼」であり、この究極に飢え、供養しても成仏を望まない悪鬼たちに食べ物をめぐんでやり、悪鬼たちが引き起こすであろう疫病や飢饉を押さえつける目的がある。死者で溢れたあの世も盆になれば地獄の釜の蓋が開き先祖霊とともに大量の餓鬼がこの世に降り立つ。これら餓鬼に食べ物を施すのだが、餓鬼たちは己の口で食っても飢えが解消されないため、人に取り憑いて人を介して呑んで食って満足するとされる。これらの考え方が盆に墓に供えられた米などを集めて野外で調理する「カマコヤギ/釜焼き」、盆の間中仏壇に供えるご飯の膳に加える「ムギホーゲー/無縁法界」などの信仰につながる。

 位牌がある寺で拝み、遺骨が眠る墓を拝み、自宅の仏壇を飾り供え物を捧げ拝む。この期間中、「ドゴダリ/色々な場所」でひたすら拝む。そして毎回気になるのが仏は「ドゴサインノヤ/どこにいるんだ」という素朴な疑問だ。あえてこの疑問について解答するならば、ご先祖様や仏様は拝むときには何処にでもいるということだ。墓で拝めば墓に、寺で拝めば寺に、仏壇を拝めば仏壇にいるのである。「ソンダラバ/それならば」はるばる帰省しなくても、都会で先祖のことを思って手を合わせればいいのではないかと思うわけだが、まさにその通りなのである。仏や先祖は墓や寺にいるのではなく拝むという行為の心の中にいるわけで場所は関係ないのである。なのに毎年人々がふるさとをめざして帰省するのは先祖を拝む行為が自分の存在と血の濃さを確かめる行為だからであろう。

ためになる宮古弁風俗辞典

なのがび

旧7月7日。夏ばて防止に食事をしたり、食中毒防止に井戸掃除などをした

旧の7月7日をさして「ナノガビ/七日」とする。この日は旧七夕でもあるが、真夏の炎天下にあたることから、熱中症対策として七日にあやかってこの日だけで7回「ミズアベ/海水浴」をして、7回「アズギバットウ/小豆ひも皮うどん」を食べればその年を健康に過ごせ、風邪もひかないとされた。「アズギバットウ」はこの地方特有の食べ物で、きしめんのような平麺にこしあんのタレをからめた甘い麺類だ。これは南部の初代の殿様が甲斐の人で甲斐地方の「ほうとうという料理に」に起源があり、小豆が高価で庶民が食べるのは御法度なので「ハットウ」になったなどというのは後付の「トッテツケダ/強引に設定した」由来だ。「ハットウ」は麺状だが小麦粉を練ったタネを汁に入れる「ヒッツミ/引っぱって摘む」や「スイトン」、「カッケ」の仲間であり小麦粉を使う高級料理だった。何故なら昔から東北の食文化は小麦ではなくほとんどがそばであり小麦粉が貴重品だったからだ。今でこそありふれた「ハットウ」「ヒッツミ」だが昔は「オゴツォー/おご馳走」だったのである。

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