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2013/07 真崎海岸の石碑順禮

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 太平洋に向かって弓形に開いている田老真崎から明神崎までの湾は東日本大震災による津波により大きく被災した。中でも真崎小湊漁港は押し寄せた津波が漁港を破壊し、駆け上がった波は真崎半島のくびれ部分を通過して岬の南側へ流れ落ちた。このため真崎ロッジなどの観光施設は根こそぎ流され瓦礫も残らず洗い流されてしまった。小湊地区は現在も復旧工事が行われているが、その被害は相当なもので防潮堤の基礎工事だけでもかなりの年月がかかるだろう。和野地区から真崎海岸に降り北側の青野滝漁港へ通じる海岸道路も津波によりほとんどが寸断され至るとこで落石し、途中の隧道には津波が運んだ砂が今も堆積したまま残っている状態だ。今月はそんな真崎地区周辺の石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は真崎小湊地区の石宮だ。石宮は屋根の庇が割れて欠損しており津波によって流出したものを被災後拾い上げ再度祀ったものと思われる。石宮が載っていた当初の台座は流されたままなので、道ばたに置かれたような状態だ。石宮横には奉納、田老町漁業協同組合、組合長・山本源次郎、土地提供者・松本勇、定置網大棒・畠山勲、定置漁業組合員一同、昭和六二年十一月吉日、大槌町上町三浦屋石材店作と刻まれた御影石が嵌められている。この石宮の中には御神体などはなく鞘堂として残されただけでどんな神仏を祀ったかは判らない状態だが、この石宮は2009年5月、本誌特集『岬めぐり』を取材した時に撮影しており当時の写真から弁財天が祀られていたことが判った。御神体の石版には海上安全、弁財天、大漁万足と刻まれていた。小窓の写真は被災前に本誌で撮影した当時の写真だ。

 次の写真も小湊漁港にある魚霊塔の石碑だ。この碑も津波で流出したものを海底から回収したもので、回収時のロープが巻かれたまま横倒しになっている。石碑は磨かれた長方形の御影石であったが流出ししばらく海底にあったためか角が無くなりつや消し状態になっており細かい文字の判読は困難だ。しかし、この碑は2009年6月号で取材しておりその時の記事によれば横書きで魚霊塔の文字に、鮭のような魚の陰刻と波の彫りがあり、田老町漁業共同組合・赤島漁場・沖小港漁場、左に縦書きで昭和六十一年(1986)四月吉日建立とあるはずだ。石碑は横長の方形で下部には大謀・畠山勲を筆頭に、親方・清水豊司、漁夫長・小林次男、佐々木正治をはじめ、定置漁場と港を往復する捲網漁船一号、二号、三号、五号、八号、動力のない運搬船の和船の各船長、船頭、機関長、友押の名前と、炊事婦の女性4名を含め計64名の名前が連なっている。

 次の石碑は旧三王閣から沢尻海岸を経て真崎に至る道と、和野地区から真崎に降りる道が交差する附近に建てられた道供養塔だ。碑は津波で流された際に割れた形跡があり被災後修復され新たに建てれたものと思われる。碑の中央に道供養塔、右に文政八(1825)天、左に四月吉日とある。

 最後の石碑は和野地区の北側に隣接する集落、駿達(しゅんだつ)にある個人持ちの神社脇にある塞ノ神の石碑だ。碑は瓢箪のような形の自然石で、中央に妻の神、右に平成三年五月吉日、左に松本和夫建立とある。神社は畑脇の林の中にあり木製の赤い社と、石宮の二基がある。石宮はこの地方でよく見かけるサイズのもので、材質が目の荒い花崗岩のため台座や側面に掘られた文字が読みにくい。拓本などをとれば年代などが詳しく判るのだが見た目や指でなぞった程度では判読できない。しかしながら、このパターンの石宮は江戸末期から明治、大正頃の意匠であり1800年代末期から1900年代初頭のものと思われる。

 塞ノ神はその地区や集落に他所から入り込む厄災や病気などを押さえ込むために、村々の境に建てられた信仰媒体だ。今回のように石碑で表現するのが一般的だが、地区によっては石碑に加え人形などを付け加えることもある。また、塞ノ神がある場所は「村・ムラ」という集合体の最も外れに位置し、そこから先は別世界という概念から、集落の穢れを捨てる場所であり害虫駆除祈願の虫送りや死者を送る引導場なども建てられた。文字的には塞ノ神の他に「妻・さい」「斉・さい」の字を当てることもあるようだ。

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