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2013/05 食堂でなにが、食ってぐべっさ

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 昭和なんてたいした時代じゃなかったと思っていたが、平成も25年が過ぎて改めて昭和を振り返ればもの凄い激動の時代だったことがわかる。とは言え、戦後生まれで「♪戦争を知らない子どもたち」世代の自分にとって昭和の印象は、質素でモノがない時代からゴテゴテした飽食の時代へと登り詰めそして「ムジョコグ/無情にも」崩壊してゆくある種の成り上がり人生の「カマケース/破産」の縮図だった。戦後は他国の戦争や紛争には目もくれず、ひたすら己の繁栄のみに徹した高度成長の波が宮古にも押し寄せ工場はフル稼働、魚だって「バガバガド/大量にの擬音」獲れてまさにこの世の春であった。「セメケー/狭い」商店街も自動車対面通行で日作の大型ダンプも通っていたし、平日だってちょっと歩けば「ナンダエ?オメサン/どうしたの?あんあた」と知り合いに出会うほどの大賑わいだった。今月はそんな昭和の商店街の思い出を食堂を中心に振り返ってみよう。(時代により店名が違っている場合もあります)

 昭和9年、山田線が開通すると田んぼの中に駅前通りが出来てそれに接続する大通や末広町が伸びてその道は後に宮古一番の商店街へと成長し、その中には食べ物を提供する食堂など多くの飲食店が発生した。

 さて人混みの商店街を歩けば腹も減る、どうれここいらで「ハラゴッセー/腹拵え・食事」でもしようかと提案すると、ならば「◎◎食堂」の「◎◎◎」を「クウベッサ/食べようよ」、いやいや「ソレヨッカ/それよりも」「◎◎◎屋」の「◎◎◎」の方が「ウンメーベーガ/おいしいだろう」と選択肢も様々だ。しかし、バスの時間もあまりないし今回は近場の食堂でと辺りを見回す。駅前には現在のバス降り口付近に「ふじや」という食堂があった。この店はそば・うどんが中心で昔は太めの手打ち日本そばを出していた。メニューには「はいからうどん・そば」というのがあって子供の頃から一度注文してみようと思いながら食べることなくこの店は今はない。向かいには「蛇の目本店」そして駅前喫茶の「らんたん」「きよみ寿司」そして「宝屋食堂」があった。この時代は県立宮古病院が駅前にあり、昔から相変わらずの待って「サンツカン/三時間」「ミデモラッテ/診てもらって」三分の診療体勢で「ヒルメスドギ/昼食時」をはさんで待つ「ヒタヅ/人たち」は駅前の食堂に入った。そんな中で「ビョーンガヨイ/通院」している人が昼から寿司を食うほど豪勢ではないわけで、雑貨屋の乙戸商店で「パンコ/パン」と牛乳で済ませたり「宝屋食堂」などで冷たいそばなどを食べたりした。ちなみに当時のきよみ寿司の入口には「天婦°羅」と書かれた看板があって小学生だった僕はこの当て字が不思議でたまらなかった思い出がある。

 末広町側に入れば「満貫飯店」があった。ここは通常の食堂とは違った雰囲気でメニューも中華に徹し餃子や焼売も出していたがすべて漢字表記なため注文は難しかった。名物はすり鉢を丼に見立ててみそラーメンを盛り込んだ「鉢ラーメン」だった。それまでみそ味のラーメンを食べたことがなかったのでこの味には感動した。そんな人気店であったが昭和40年代末期に火事で全焼、そのまま復活しなかった。

 末広町に面した八百平旅館から折れると現在の花の木通りでありここには引揚者マーケットを出て店舗を構えた「ニコニコ食堂」があった。この店はみそおでんもやっていて名物はマーケット時代から親しまれてきたリーズナブルなニコニコラーメン。たしか昭和45年頃、一杯200円だったと記憶している。末広町に戻って現在の鈴屋手芸店付近に佐々木という食堂があった。この時代のほとんどの食堂がそうであったようにうどん・そば丼の他にいなり寿司などもあった。

 さて、次は食堂ではないが現在の大越電気隣に大学芋を売っている店があった。大学芋は短冊に切って油で揚げたサツマイモに甘い砂糖蜜をからめたものだ。大学芋は中華料理から派生したもので、焼餃子のように戦争で大陸に渡り持ち帰ったレシピの副産物だったかも知れない(本誌推測)。店の前は揚げ物の「コーバスー/香ばしい」「カマリ/匂い」が立ちこめ客は店の前の椅子に腰掛けて食べたりした。この店の娘さんがかなりの別嬪さんでタバコ屋の看板娘として繁盛したという。この当時、大越電気の裏手には赤由(あかよし)製麺所があり各食堂に麺を卸していた。現在の光蘭飯店がある場所は文化ホールというパチンコ店であった。震災後解体撤去された服部時計店があった場所にはチクワやサツマ揚げを製造する店、その道を大通まで突き当たった所にはイトキン商店があり懐かしの三角「ケーギ/経木」に入った陸中納豆を製造していた。

 末広町の食堂の横綱格は現在もたくさんの市民に愛される「冨士乃屋食堂」であろう。宮古人なら誰でも一度は入って食べた経験がある食堂の中の食堂だ。薄いしょう油ベースに軽くモヤシのあんかけが載った冨士乃屋ラーメンは今も昔も手頃でおいしい庶民の味だ。冨士乃屋を過ぎると、宮古には珍しい洋食の店「レストラン太田」があった。ステンレスの皿に載ったスパゲティ、チキンライスを薄焼き玉子でくるんだオムライスは憧れの食事だった。ちなみにこの時代の洋食レストランはこの他「グリル白十字」「レストランほりた」があったが庶民には敷居が高い高級店であった。レストラン太田の筋向かいには現在は金浜に移転した米久食堂があった。この店は古くは食堂ではなく八百屋であり宮古女学校の調理実習などに野菜を搬入していたという。末広町のバス停に近く朝早くから営業しており市場帰りの人もよく利用していた。

 末広町しんがりの食堂は「鶴よし食堂」だ。専門学校を卒業して宮古に帰ってから務めた会社が残業になるとよくこの店から出前をとったものだ。そんな昭和50年代、鶴よし食堂がおもちゃ屋に転身することを知らされた。時は任天堂のファミコンが世に出る寸前であった。先読みが成功したか裏目だったかは知らないが、その後おもちゃ屋はブティックとなった。

ためになる宮古弁風俗辞典

けっぽれがねー

期待はずれで張り合いがない。見かけ倒しでがっかりした気持ち

 凄い店構えで高級な家具と器の割には出てくる料理はさほど感激もせずたいしたことなかったり、雑誌やガイドブックの前評判では店主のこだわりと眼力は半端じゃないと聞いて入ってみた旅先のラーメン屋の味にがっかりすることがある。また、頑固で変わり者だという彼女の父親は会ってみたらただの酒飲兵衛だったり、社会に背を向け過激な衣装と髪型のロックバンドが意外と子煩悩だったりする現場を見ると、気が抜けたりする。こんな時、勝手ではあるが宮古人は自分の想像と現実のギャップを目の当たりにして「ツァ、ケッポレガネーナー/ちぇ期待はずれだな」と毒づく。「ケッポレ」の「ケ」は「気」で「ケッポレ」とは「気張り」であろう。期待が外れ気張りがない、すなわち「ケッポレガネー」のである。宮古弁が得意と言いながら「ソレペーンコガヨ/それっぽっちかよ」宮古弁のエキスパートと聞いたけど「ケッポレガネーナ」。はい…「オモッサゲナゴゼンス/申し訳ございません」。毎月、反省しております。

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