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2013/05 津波後の重茂石碑順禮

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 東日本大震災が発生した1ヶ月前の平成23年2月中旬、本誌3月号特集取材で重茂里地区の某宅にある襖絵を取材していた。絵は重茂出身で東京美術学校(現東京芸大)を経て彫刻家となった吉川保正氏のもので、昭和30年代当時の重茂漁港が8枚の襖に描かれたものだ。取材後、その絵を描いた吉川保正と同じ場所に立って現在の漁港(津波前)を撮影した。その時、昭和30年代時には港防波堤の突端だった場所に変わったモニュメントがあった。それは吉川保正の襖絵にも描かれており、岬の岩の上にある5メートルほどのコンクリート製の8角形の柱であった。その上部には皿のようなものがあり、近くで作業していた漁師に聞いてみるとそれは、電気が無かった時代に皿の上で松などの薪を燃やして夜に入港する船に岬の存在を知らせる原始的な灯台だったという。この灯台がいつ頃まで稼働していたのかはすでに誰もが忘れているが、小さいながらも当時は沖から見える港の灯として漁船の安全に貢献していた漁業の産業遺跡でもある。現在は護岸工事や埋立が進み防波堤の突端はこの灯台のはるか先まで伸び、当時の灯台はすでに船溜まりの中の過去のモニュメントと化している。今回の津波は重茂漁港一帯をのみ込み施設はほぼ壊滅したがこの灯台は無事で今もその姿を残している。重茂漁港周辺は現在急ピッチで復旧工事が進んでおり今年の春にはワカメなどが集荷され港が復活する日は近い。

 津波で大きな被害となった重茂漁港と里地区は住居が撤去され今は仮の漁業施設しかない。そんな中、里地区の県道41号線沿いに重茂小学校発祥の地という石碑が建っていた。この石碑は津波で流されたものを新たに建て直したもので、土台石の部分を見ると新しいコンクリートで石碑が固定されていた。碑には創立百周年記念建立、一、明治九年十一月創立。当時入学児童十五名と伝える。一、明治二十九年六月十二日津波のため校舎流失、翌年西大館に新築移転、昭和五十年十一月一日とある。このことから当初重茂小学校は海岸に近い里地区にあったが、津波で流され高台である西大館に移転したことが判る。ちなみに西大館とは現在の重茂漁協がある場所附近であり、そこには重茂小学校西大館校舎移転跡地という石碑があった。この碑には明治30年9月に西大館に建設移転、昭和44年1月舘十二に新築移転とある。このことからここから昭和44年に移転したのが県道41号線を挟んで向かいの重茂第二地割にある現在の宮古市立重茂小学校だ。同小学校には現在、津波で被災し機能していない千鶏小学校、鵜磯小学校の生徒が間借りしており近い将来これらは統廃合されることになっている。

 次の石碑は前述の被災したまま現在休校している宮古市立千鶏小学校玄関にある石碑だ。千鶏小学校は海岸から約30メートルほどの高さがある高台にあり、同地区の津波避難所となっていたが今回の津波はこの小学校校舎にまで押し寄せた。避難した人々は学校からさらに高台にある千鶏神社などに避難し難を逃れた。

 現在校舎はコンパネで窓が塞がれた状態で壁にある時計は津波が襲った14時47分で止まったままになっている。石碑は昇降口横にあり、海に鍛え緑に学ぶ、為、千鶏小グランド拡張、平成元年四月吉日、宮古市長千田真一とある。石碑裏には校庭拡張工事に関わった協力者として、重茂漁業共同組合をはじめ、木村安五郎、中村秀治、上野等ら20名の連名がある。

 最後の石碑は千鶏地区の津波到達記念碑だ。この石碑は千鶏地区に到達した津波最深部の位置を後世に残すため昨年建立されたもので、千鶏神社下に位置する上鶴商店横にある。碑は花崗岩の四角柱で正面に平成二十三年三月十一日、津波到達地点、裏に姉吉観音賛仰会・南地区自治会、側面に平成二十四年七月と刻まれこのような行為が口碑として将来の災害における警鐘となることだろう。

 千鶏バス停横にも昭和8年の三陸津波の被害を後世に残すための津波記念碑がある。現在そこには津波で流された別の石碑なども集められ横倒しになっている。石碑は長い時間その場に佇み碑文を後世に伝える。近代化された今の時代にはアナログすぎる方法ではあるが、真実を確実にを伝える手段であり、防災の基本でもあると考える。

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