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2013/04 津波が襲った埠頭の石碑

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 3月11日がきてまた震災から新たなカウントがはじまった。震災を経てまちは新たな姿へと変わってゆくのだろうが、その速度は緩慢で、方向性は未だ定まっていない。被災した建物は撤去されそこに人が暮らし営みがあったことが幻のように甦る。海岸沿いの祠や神社も被災しそこにあった信仰媒体も行方不明となったものも多い。それでも震災から数ヶ月で倒れた石碑が起こされたり、新たな基礎を作って建て直されたりしていた。石碑ばかりでなく多くの墓碑も津波で倒れたり流されたりしたが、震災の年の盆には多くの墓碑が建て直された。墓石は欠け磨かれた表面は傷だらけではあったが非常時であったが先祖を敬う気持ちは廃れていなかった。震災によって亡くなった人は行方不明者を含めてこの宮古で500人を越す。今年この精霊すべてが三回忌を迎える。これが節目であり悲しい現実なのである。

 さて、今月は東日本大震災の津波によって完全に水没したと思われる藤原埠頭付近の石碑を巡ってみた。震災から2年の月日が流れ今は瓦礫処理やテトラポッド養成などで混雑する藤原埠頭にあり以前取材した数基の石碑がどうなっているか知りたくなったからだ。

 最初に確認に行ったのは2010年8月号の宮古空襲の特集で取材した戦病没船員慰霊碑だ。この石碑は被災し現在撤去作業が行われている港湾福祉センターに隣接した緑地公園内にある巨大なモニュメントを兼ねた石碑で、題目は元内閣総理大臣・鈴木善幸の書だ。この碑は宮古海員養成所(現・国立宮古海上技術学校)を卒業し、戦時中の輸送船や補給船の任務につき北の海や南方の戦場で帰らぬ人となった卒業生を悼むため、当時の本科第一期生有志が宮古に集い、同窓生の戦死殉職、病死者の慰霊碑建立を提案、昭和53年の同校同窓会で正式決定となり宮古市藤原埠頭内の公園に建立したものだ。合祀されているのは128名、その中で宮古市出身者は15名を数える。津波はこの石碑の高さ以上であったが碑自体には大きな損傷はなかった。ただ、前面に日本地図と太平洋をレリーフにした約1mの四方銅板が剥がれ損失している。

 次の石碑は戦病没船員慰霊碑の手前にある石組のモニュメントだであったようだが、津波によりモニュメントだった部分は消失し碑文を嵌め込んだ石碑のみが残っているものだ。碑文には縣勢発展の門、宮古港、宮古市長千田眞一書とある。この碑が建立されたのは長期計画であった藤原埠頭の埋立がある程度完成した昭和60年代初頭あたりと推測され、建造物に対して代表者が署名して基礎部分などに嵌め込む定礎の代わりとして新しい宮古港完成の証しとして建立されたものかも知れない。しかしながら現在は大部分が津波で流されてしまい石碑の本当の意味は不明だ。

 次の石碑は2007年1月号で取材し拓本をとった松村巨鍬の句碑だ。この碑は昭和30年に磯鶏須賀の一番岩の中腹、通称・陣屋崎に建てられたものだが港湾埋立などで紆余曲折し移転しながら埠頭の材木置き場に佇んでいた。石碑は本体の厚さもあるがコンクリの台座に乗り背部分がやはりコンクリの壁に密着していたため津波直撃でも不動だったようだ。著名な俳人の歌碑としてはあまりにも酷い放置状態であったがそれゆえ流されずに残ったようだ。ちなみに俳人・松村巨湫、本名松村光三は明治28年(1895)に東京浅草に生まれ、会社員から美術雑誌の記者を経て著述生活に入った。俳句は少年時代に俳人だった伯父らの指導を受け、後に自らが主宰する俳誌『樹海』を創立した。昭和39年70歳で没している。宮古との由縁は当時活動していた宮古の俳句会が氏を招き句会を挙行、その時に巨湫が詠んだ

 沖の石

  夏霧しぶく

    逢い別れ


を句碑として残したものと思われる。

 最後に向かったのは八木沢川河口の飛鳥田浜弁天鼻だ。ここは昔のとど浜であり隣の飛鳥田の浜との境界に石碑と石宮があった。現在の飛鳥田浜は防潮堤で囲まれた貯木場となり、とど浜は埋め立てられ現在は瓦礫置き場となっている。震災前には水神などの石宮が松の古木と佇んでいたが、震災後は石宮は再建されたようだが松は塩害で枯れて伐採されていた。石宮は古い順に、文化五辰三月吉日建立の八大龍神、大正十三年三月吉日建立の水神宮、昭和24年橋場勝郎建立の奉納大弁財天女の三神。震災で景色は変わったが信仰が廃れず存続したことはよいことだと思う。

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