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2013/03 インドア石碑順禮

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~石碑散策で見かける代表的なものを簡単に解説~

 今年は沿岸部では珍しく1月に結構な量の積雪があった。寒さの厳しい時期だから雪解けも進まず石碑がある墓地周辺や神社などは雪が固まったままで石碑も読みにくい。何より雪が邪魔で探しずらい。そこで今月はインドア石碑順禮としてよく見かける石碑を簡単に説明しよう。

【西国順禮塔】

 江戸期から明治・大正期に宮古から関西圏にある神社仏閣を参拝した証しとして建てられた石碑だ。西国とは江戸以西を指し主に伊勢神宮参りがメインだが、その道程にある高名な神社仏閣は道中安全も兼ねて参拝した。藩制時代は基本的に領民の移動・旅行は御法度であったが世の中の安泰を願って神仏を詣でる場合に限り旅が許された。旅は一行を先達する山伏らのネットワークにより様々なコースがあったようで、目的の伊勢神宮から折り返す場合も日本海側へ出て北陸路を戻る場合もあった。西国順禮は無尽と呼ばれる路金積立とくじ引きの当選者が選ばれたようだが、当時の西国への旅は日数もかかる命がけの旅であり、病気や事故により旅先で死亡することもあった。そのため順禮に際しては代官所の許可証と寺請人別帳の写しを持参した。これら書類はその人物の所在を明らかにするものでその地での埋葬を願うものだった。それほど危険な旅から無事に帰った人々は神仏の御利益に感謝し、それを永遠のものとするため石碑を建てた。その大きさは旅人らの経済力にも比例し、江戸後期には巨大なものも造られたようだ。

【拝礼塔】

 前述の西国順禮塔と重複するが、他所に出向いて詣でた神仏を勧請あるいはその神仏のある方向を向いて祈ることで直接詣でたと同様の御利益を得るための石碑だ。これは崇める神仏のありがたさと威厳を里人に知らしめることで、詣でたことのない人でも平等な御利益をもたらすとされる。宮古に多いものに岩手山を意味する巌鷲山大権現、早池峰山大権現、十和田山大権現、金比羅大権現、象頭山大権現などがある。これらは西国塔に比べ、山岳信仰の色合いが濃く、簡単には登頂できない霊山の本宮を里から手軽に拝めるよう工夫されたものだ。ちなみに近世は都市計画や道路工事で石碑の向きが変わっており建立当初の方向性はほとんど失われている。

【経塚】

 ありがたい経文を小さな石に一文字ずつ写し墨書きしたものをひとまとめとして埋めた場所に建てられた石碑だ。従って建立当時から石碑が移動していない場合、その石碑を除けて土を掘り起こせば経文を書いた小石が大量に出土することになる。このパターンの石碑で宮古において最も有名なのは舘合町の一字一石塚だ。この石碑は経塚としてもかなり古いもので縦横2メートル余りの大きさで中央に大日如来を意味する円が彫られ、五部大経一字一石、雲公成之、永和第二とあり年号は西暦1376年で南北朝時代の北朝年号となっている。この他、市内の各寺院の参道、各地区の引導場とよばれる葬儀施設には旅の六部衆などの修験者が有力者の力を得て建立した経塚がある。また、江戸末期には寺の経営不振や飢饉などから僧侶が地区民の浄財を募るため経塚を建てることもあったが、南部藩ではこれを厳しく規制している。

【天照大神】

 維新後樹立した明治政府はそれまであいまいであった寺と神社の役割を線引することで神と仏を分離しようとした。同時に神仏混合で修行や祈祷による信仰を生業とする修験道の廃止を命じた。これは国をあげて天皇制へ回帰するうえで幾重にも分派した神道を束ね天皇を祖とする国家神道を樹立するためだった。これにより寺なのに修験の拝み修行をするという以前までの信仰形態は否定され廃寺に陥る密教寺院も続出した。また、神社にあった仏尊は破棄されたり里へ隠され信者たちは信仰結社のようになり地下へ潜るしかなかった。こような明治政府の信仰政策は廃仏毀釈と呼ばれ多くの信仰形態の歪みを残したまま現在に至る。この時期、政府の審査基準をクリアする目的で各地区の郷社、村社などの神社では、社人たちの手で天照大神の石碑が建てられたようだ。この石碑が参道や境内にあることによってその神社が明治政府指導の信仰形態である証しとなったのである。その後、各神社には神話に基づいた御神体が新たに割り振られ、本来の信仰形態は廃れるしかなかった。本来仏教にある薬師如来、弁才天、稲荷(ダキニ天)などが薬師神社、稲荷神社になってしまったのはそんな道筋があるからだ。

【道標】

 藩政時代において地図は戦略的機密文書であり流通していなかった。そのため各地の街道には旅人の道標として一里塚などが建立されたが、街道とはいえ田舎では獣道のような道であったため各村の堺や分かれには石碑や石仏を置いて印とした。そしてこれら石碑はその村に外部から侵入する疫病や穢れを防ぐための塞ノ神でもあった。旅人はそれら石碑群を確認してはこの先に集落があり、石碑の数や種類でその規模も大まかに予想できた。そんな石碑の中には道標として行く先を記したものがある。これらは既存の石碑の空白部分に後から彫り込んだもの、または最初から神仏の名を入れ左右に行く先を表記したもの、そして完全に道標として行く先のみ表記したものがある。これらはその土地を初めて訪れる旅人が道に迷わないように配慮した当時の小さな親切であり「もりをか」「やまミツ」などの訛りや、分盲者のための絵文字などユニークなものも多い。

【供養塔】

 人の暮らしは多くの命の上に成り立っており、いつの時代も生活のために奪われる命の尊さを憂いできた。また、人が生まれそして死んでゆく時の流れの中で先祖や、成仏を望まない哀れな霊を慰めることで疫病を防ぎ豊作と大漁を願ってきた。これらの行為の中で建てられるのが供養塔だ。それは死んでしまったものたちを思い手を合わせる行為であり供養塔はその具象でもある。代表的なものに牛馬に対して建てる牛馬供養塔、馬頭観音、大威徳明王、養蚕において大量に殺してしまう蚕に対しての養蚕供養塔、蚕神塔がある。この他に狩猟に関係する鳥獣供養塔や鯨に関係するものある。馬頭観音は変化観音のひとつで三面六臂の憤怒尊で頭部に馬の冠があることから馬の守り神とされた。大威徳明王は密教の神で牛に跨った多足の神で牛馬安全と道供養を兼ねる仏尊だ。この他にも供養塔は多岐にわたり存在している。

【庚申塔】

 庚申(かのえさる)の日に眠っている人間の体内にいる虫が身体から抜け出て、人間が普段行っている悪行を天界の天帝に密告しその罪の大きさで寿命が縮まるという中国の古事を元にして、庚申の日に神仏を囲んで集まり夜明かしすることで体内から虫を出さないという庚申講による浄財で建てられた石碑だ。特徴は夜明かしすることから上部に月天、日天の印、一番鶏を意味する鶏、庚申の猿を意味する三猿、そして仏教と融合して発生した青面金剛などがモチーフとなる。藩政時代、庚申講は百姓一揆の温床になるとして南部藩では取り締まったようだが、庚申講はまったく衰えず各地で開かれていた。食べ物を持ち寄り持ち回りで夜明かしするのは楽しみのない時代のささやかなイベントであったかも知れない。また、この日に男女が交わって生まれた子供は必ず火つけになるとされ忌み嫌われたが、これも方便であり夜這いなども盛んに行われたと考えられる。

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