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2013/02 宮古駅前周辺の石碑散策

提供:ミヤペディア
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 最近久々に宮古駅がリニューアルし以前までの水色と白を基調とした駅舎はこげ茶色と白を基調にした外観になった。とは言え駅舎そのものは昭和9年の開業当時と大きな変更はないから、塗装工事が終わり足場が撤去されても、いつも見慣れた景色のような気がする。しかし、よく見ると駅前の構造は時代に沿ってわずかずつ変化している。バス乗り場や降り口、ロータリーやタクシー乗り場、しいては街灯や横断歩道の位置など細かく変更されている。

 私達は宮古駅や県北バス乗り場、駅前交差点などを含めて「駅前」と称しているが住所表記上は宮古駅駅舎ホーム、線路は宮町一丁目、106急行バス乗り場がある附近は大通四丁目、向かいの飲食店が並ぶ通りは栄町となる。

 田老鉱山、ラサ工業宮古精錬所が稼働していた時代は宮古港貨物駅やラサ工業専用線などがあり宮古駅が取り扱う貨車も多かった。加えて新日鐵釜石をはじめ、水産業、林業なども右肩上がりで貨物列車は山田線を何往復もしていた。そんな貨車に対応するため宮古駅はちょっとしたターミナルであり機関区は大きな敷地をもっていた。そんな時代を経て蒸気機関車がディーゼル化し、その後、産業低迷と大規模工場の撤退などもあり山田線は貨物取扱を終え、完全に旅客鉄道となって現在に至る。今月はそんな宮古駅周辺にある石碑やモニュメントを見てゆこう。

 最初の写真は旧宮古機関区入口にある蒸気機関車の動輪をあしらったモニュメントだ。コンクリートの台座に枕木を固定しそこに実際のレールを置き蒸気機関車の動輪を載せている。車輪の直径は約1メートルほどで台座前に「動輪の塔・昭和48年10月」とレリーフされたプレートが置かれている。48年といえば山田線が全線ディーゼル化したのが45年だからその3年後の建立だ。それまで働いた蒸気機関車がスクラップになるためその主要部品で山田線の歴史を後世に伝えようと設置したものだろう。

 次の写真はやはり旧機関区内にあるもので、山田線脱線事故における機関士と機関助手を讃えた石碑だ。事故は昭和19年3月12日山田線平津戸~川内間で雪崩により貨物列車が脱線し機関士が殉職した。機関士は重傷にもかかわらず助手に適切な指示を与え二重事故を防いだという。この機関士魂はのちに『おおいなる旅路』として映画化され多くの人に感動を与えた(詳しくは本誌2008年10月号№360参照)。石碑は自然石に機関車のプレートをはめ込んだもので、脇に建立経緯を記した碑が添えられている。それによると事故後復元再生された機関車C58283が山田線ディーゼル化で廃車となるためこの機関車のプレートを保存し功績を世に残すためモニュメント化したと説明され、昭和45年10月、盛岡鉄道管理局長・木村直の名がある。なおこの石碑と同様の目的で宮古ロータリークラブが駅前に建立した「超我の碑」は昭和47年建立だ。どちらの石碑にも機関車のプレートが嵌められているがこの真贋は不明だ。

 次の石碑は駅前の超我の碑、鉄道開通記念碑に並んでいる。三陸鉄道開業の石碑だ。碑は自然石に御影石2枚を嵌め込んでおり、当時の千田眞一宮古市長の書で、三陸鉄道いま成るの題目に「鉄路への志を発して九十年…(以下略)」の三陸鉄道開業までの苦難と先人の思いが述べられている。側面には昭和59年4月1日、岩手県知事中村直、宮古市長千田眞一、石碑寄贈山根鉄雄、刻、鈴木祐一の名がある。

 最後の写真は石碑ではなく彫刻で、三陸鉄道社屋前の多目的広場横の小さな公園内にある。この附近は三陸鉄道、JR、宮古市、そして個人の土地が入り組んでいる。彫刻が置かれているスペースは宮古市の管理で立木やベンチが整備されている。彫刻は宮城県出身の彫刻家・高橋典雄氏の『相』という作品だ。この彫刻は昭和63年、彫刻のあるまちづくりをすすめる会(石村清忠代表世話人)が市内に設置した数点の彫刻作品のひとつだ。当初この作品は移転前の県立宮古病院前にあったものだが、県立病院移転後この公園に移されたようだがその時代、経緯は不明だ。作家の高橋氏は「国展」で知られる国画会所属で岩手芸術祭彫刻部門で審査員をつとめたり、盛岡での彫刻関係のイベントに参加しているようだ。また平成18年には神奈川県で開催された石空間展5に出品しており野外彫刻の分野で活躍している。

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