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2012/12 いいどご息子と下駄スケート

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 『こう見えてもな、「オラガエーハ/おれの家は」侍の家で、明治の頃は士族で「ソンツォーサマ/村長様」だの「キョクツォーサマ/郵便局長」もやったほどだ、だから見ろ「カダナ/刀」や槍、火縄銃も「アッペー?/あるだろう?」。お寺の戒名だってずっと院号だ。オレが「ワラスナーコロ/子どもだった頃」は「ナゴガドー/小作人たち」が「テースタ/いっぱい」いて、高そうな「ツポコ/壺」だの「チャワンコ/茶碗」、掛け軸だのが「ソゴラサ/その辺に」転がってだったもんだ。この町内の○○(神仏名)を祀った神社だって本当は「オラホーノ/おれの家の」神様「ダッタードモ/だったけれど」何代か前の「ズサマ/旦那・祖父母にあたる人」が「カマーケーステ/釜をひっくり返して=倒産」しまって「ヤスギゴド/屋敷・土地ごと」「カマドサ/分家に」取られたのさ…。』

 昔から家柄と稗殻では「オマンマーケーネー/飯は食えない」と言われるがこのような話しはよく耳にする。語る本人も先代から聞かされ、先代もそのまた先代から聞かされていたりして、話しに「オッペ/尾ひれ」がついて激しく誇張されいる。酔っぱらった勢いで出してきた家系図も見ればご先祖様は南北朝時代の皇室方の有名人でその側室の八男だか九男だか、本当にこんな人がいたの?と思うような人物から系図がスタートしていたりする。その割に家系図の紙質や墨は新しく肝心な年代は淡泊な内容で「ハンカクサイ/怪しい」。するとこちらの真意を見抜いたかのようにこの家は「メーズ/明治」の火事で一回「ヤゲデッカラ/火災に遭ってるから」と付け加えられる。まぁ、今はともあれ、自分のルーツが有名な武将であり近世には土地の有力者として君臨していたという密かな自慢と、こう見えても「オメガンドー/一般人」とは「ツガーノサ/違うのさ」という優越感に浸りたいのであろうか。ともあれ、昔は権力者であれ今はただの人であれば、やはりこれからもただの人であり我々一般人と同じだ。が、しかし、世の中には自慢するでもなく、ごく自然に、当たり前に、経済力のある良血で歴史ある家に生まれ、一般人に混じって普通の学校に通っていたりする人がいる。今月はそんなお坊ちゃんについて見て行こう。

 僕らの小学校時代、すなわち昭和40年代のお坊ちゃんあるいはお嬢ちゃんの代表は医者の子どもだった。彼らはきちんと床屋で髪を刈って、当時は珍しい半ズボンにシャツの出で立ちだし、お嬢ちゃんは長い髪に編み込みや髪飾りで綺麗なワンピースやスカート姿で毎日その服装が違っていた。それに引き替え僕らは頭は親がバリカンで刈る坊主刈りだし男も女も服装はほぼ毎日同じの「キタキリスズメ/着たきりと舌切り雀の語呂合わせ」だった。学校に持ってくる習字の道具も図画の道具も見たこともないようなもので子ども心にも「カネモヅナンダーベーナ/裕福なんだろうな」と思った。しかし、坊ちゃん・嬢ちゃんは僕らに対して高圧的なわけでもなく、むしろフレンドリーで「ツカスガッタ/友好的だった」ようだ。お嬢ちゃんはイナカ臭い「イッパヒトカラゲ/一羽一からげ」のクラスにおいて美しく目立ち、坊ちゃんは勉強も出来て秀才肌で目立った。男女二人一組でクラスの雑務を担当する日直や週番などで一緒になると妙に胸が高鳴ったりもした。しかし、ふとした所で生活文化レベルの違いが顔を出してしまい、庶民派の反感をかってしまうことも「トキタマ/時々」あった。

 当時、そんな坊ちゃん・嬢ちゃんたちは小学校までは同じ学校だったが、中学からは盛岡や仙台の学校へ転校することが多かった。可愛い子には旅をさせよの実践なのか、あの時代の宮古の教育レベルの低さを憂いでの転校なのか真意はわからない。さて、そんな華やかな舞台に君臨する坊ちゃん・嬢ちゃんと比べると存在も雰囲気も地味ではあるが、地元に代々君臨する旧家の坊ちゃん・嬢ちゃんもいた。彼らは(彼女ら含む)前述のモダン坊ちゃんたちのイメージはなくごく普通の服装でごく普通の「アダマカッコウ/髪型」をしていた。というよりむしろ地味なぐらいだった。学校で一緒に遊んでもリーダー的な自己主張することはなくいつも温厚だった。勉強もそこそこで目立つわけでもなくいつも平均をキープしていた。しかし、ただひとつ違うのは彼らの住まいの大きさだ。初めて遊びに行ったその家は庭に太い柿の木があり大きな森を背負った黒瓦の巨大な旧家だったりする。その雰囲気は農村地帯にもかかわらず農家という風情はなく、この辺り一帯の大地主という感じなのだ。友人に促されて入ったその家は「コキタネー/小汚い」ズックを脱ぐのは失礼なほどの大きな玄関に迷うほど部屋があり、二間しかない団地生活をしている自分の暮らしがいかに小さいか思い知らされるのだった。

 そんな旧家の坊ちゃんは、見た目は僕らと同じでも持ち物は一流だった。雨の日に「カブッテ/さして」くる黒い傘もナイロンではなく布張りの子供用こうもり傘だし「ナガクヅ/長靴」だって立派だ。広場で遊ぶ野球の時だって自分用の「ヤーケー/柔らかい」革グローブを持ってくる。自転車だって僕らが大人用を「サンカグノリ/三角乗り」しているのに子供用の自転車にのってくるのだった。田んぼに張った氷で「スペリッコ/スケート」をするときだって一人だけスケート靴を履いていた。このような坊ちゃんを宮古弁で昔は「イードゴムスコ/良い家の息子」と呼んだが今では生活文化の差も「ツツコマッテ/縮まって」目立たなくなってしまった。ちなみに「イードゴムスコ」に似た言葉で「タガラムスコ」があるが、こちらは「宝のように大切」という意味ではなく「宝はめったに人に見せない」ことから「人前には出せない出来の悪い息子」という意味だ。

 写真はその昔の「イードゴムスコ」が使ったであろう「ゲダスケート/下駄スケート」という「ツマカ/下駄」の刃を外し手製のスケートブレードを付けた昔のスケート靴だ。ブレードの中心は直進性を出すため溝が切ってある。厚手の足袋をはいて革製の鼻緒に指を通しこの「ゲダスケート」で颯爽と滑ったのは何処の「イードゴムスコ」であろうか。市内リサイクルショップで撮影した。

懐かしい宮古風俗辞典

あめっこ

飴のこと。「あめこ」と短く発音することもある。水飴のときは糸を引くような粘性を真似て「あめーこ」と言う。

 チョコやキャラメルがいつでも買えるようになって、誰もが濃厚な生クリームやカスタードに舌がとろける幸せを味わえる、そんな贅沢な時代になった。しかし、たまに舐めたくなるのが「アメッコ」だ。最近は様々な味のものが袋詰めで売られているが、昔は駄菓子屋で1個から売っていた。それらは味や形状で「くろ玉」「ハッカ」「らっきょ飴」と呼ばれ現在売られている「アメッコ」に比べ子供の口でほおばるのは大変な大きさだった。また、昔は飴売りの行商もいた。有名なのは終戦直後の「カブスメさんのハッカ飴」で実際に実在した「カブスメ」さんは軍服に鳴り物を携え街中で囃し立てて子どもたちのアイドル的存在だったらしい。この「アメッコ」は咽によいという薬効もあったようだ。昭和40年代には「アメッコ」を買うと手製の「ハダコ/旗」を渡しその「ハダコ」が何本か貯まると「アメッコ」と交換する「モチアメ」という行商がいた。これは市内の人だったか他所から流れてくる「タビシュウ/旅商人」だったかは不明だ。この「アメッコ」は「モーヅ/餅」のように白くてよく伸びるため「モチアメ」という名前だったのだろう。

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