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2012/11 山﨑鯢山顕彰碑周辺の石碑

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字下げされた行

 江戸末期の津軽石に山﨑鯢山という儒学者がいた。いたと言っても若くして江戸・上方へのぼり当時活躍していた儒学者の門弟となり大成、帰省後は学者として南部藩に仕え盛岡城下に居を構えていたから、津軽石にいたのは少年時代のみだ。幕末を経て維新後は県庁に勤め岩手県地誌の編纂を手がけ、後に盛岡で私塾を開き多くの門弟を集め儒学者、詩家として名を馳せた。儒学とは孔子を祖とする思想であり詩学のみならず政治経済、兵法や易などまで幅広い中国の古典学問だ。紀元前からいくつもの国家が存在した中国大陸は何度も王朝が変わりその都度、儒学も刷新されたり儒学を廃絶させる動きもあったようだ。鯢山が生きた19世紀の中国は安定した清の時代であり、日本は江戸末から維新を経て明治時代であったが儒学思想は大きく政治の底辺に流れていた。

 鯢山という名は号であり、通称は謙蔵、名は吉謙(きつけん)。字名を士謙と名乗っていた。文政5年(1822)に津軽石村に生まれ、17歳の時に当時、江戸で医学を学んでいた兄を帰郷させるため上京、兄を帰しそのまま江戸の儒学者の門弟となった。その後上方から山陰、山陽を遊学し、京都で梁川星巌に詩を学び門下生となった。その後嘉永4年(1851)『イギリス史』『ロシア史』を執筆、安政4年(1857)には『鯢山詩集』を編纂している。  今月はそんな鯢山ゆかりの津軽石旧馬越踏切附近の石碑群を巡ってみた。  最初の石碑は鯢山の顕彰碑でありその詩歌、四行の七言絶句が刻まれた石碑だ。碑文は次の通りだ。

 身落丹波丹後間
 何時昼錦慰慈顔
 二千里外満天雨
 蓑笠泣過不孝山

 この詩歌は鯢山が何歳の時に作られたかは判らないが鯢山が京都で梁川星巌に詩を学ぶ以前に関西から山陰・山陽を旅しておりその頃に詠まれたものと考えられる。詩の全体像をまとめると次のような意味になる。「落ちぶれて丹波丹後附近を彷徨う、いつになったら故郷に錦を飾り両親を慰められるのか、ふるさとを遠く離れ雨に打たれる、蓑も笠もなく峠越えをする…」こようなイメージ解釈となる。詩の中の「昼錦(ちゅうきん)」は故郷に昼間堂々と帰ることを、「二千里」は実質の距離的単位ではなくはるかに遠いという意味を、「泣過(なくすぎる)」は雨具も無く通過するを、「不孝山」は現在の丹波宮津市に実際にある普甲山でありこれを中国の古事に出てくる不孝山に置き換えていると推測される。

 碑の裏には鯢山の略歴と有志が集まり鯢山顕彰会を組織し氏の高風を後世に伝えるという文面が刻まれている。末行には昭和三十四年七月、山﨑鯢山顕彰会長・盛合光蔵とあり、題字・盛合光蔵書、詩文・新山芳泉書、石工・大手竜治刻とある。ちなみに題字を書いた盛合光蔵は江戸時代からの津軽石村の代々の豪商で、藩政時代は藩公も宿泊した親々堂の主でもある。詩文を書いた新山芳泉という人物は長根寺の前住職で中国文学や漢詩に長けた人物だったという。

 次の石碑はウロコのような紋様のある花崗岩に正方形の御影石をはめ込んだもので、元県議会議員盛合氏の三行詩が刻まれている。詩は次の通り。

 月の瀬に
 母郷回帰の
 鮭のぼる

    聡

 裏面に昭和六十二年一月建立・発起人代表・長澤栄次郎、以下連名で盛合光蔵、中島親、沼里真澄など8名の名があり、石工・大手忠一とある。代表の長澤氏は当時の津軽石鮭繁殖組合の組合長だ。詩は鮭の母川回帰を詠ったもので、落款にかなり崩した書体で「聡」の文字がある。

 次の二基は鯢山顕彰碑と並ぶ文政十二年(1829)の馬頭観世音と、同じく文政十二年の西国順禮塔だ。これらの石碑は津軽石稲荷神社の参道にあったか、法の脇へ続く旧街道の路傍にあったものを顕彰碑等を建立する時に習合させたと考えられる。

 現在東日本大震災により津軽石も被災し、JR山田線は不通のまま一年以上が過ぎた。津軽石駅はコンパネが打ち付けられ、石碑群がある馬越踏切は撤去された。レールは真っ赤に錆びて川帳場附近を過ぎると線路があった形跡すらない状態だ。

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