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2012/11 十字架山で冒険ごっこ

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 震災で多くの店舗が「ブッカサレデ/壊されて」解体撤去された本町から中央通りの「ウラッケー/裏手」の山は中世の時代には『黒田舘』という山城があった。城といっても大きくて天守閣や水堀を蓄えた城ではなく、山そのものを城に置き換え最高所に物見や本丸を置いたもので砦(とりで)に近いものだ。

 室町時代から戦国時代に黒田の舘を支配していたのは閉伊氏の流れで千徳氏の血縁にあたる閉伊員連(へいかずつら)という人物だ。この人物は閉伊氏本家の統領が没した時に領地相続の件で本家と対立、関係を「コツケラガステ/こじらして」室町幕府に不服を申し立てたが却下され苦渋を飲んだ。それでも舘合の一石様がある『笠間舘』、測候所があった『鍬ヶ崎舘』も所有しており、閉伊川河口から鍬ヶ崎の「キスパマ/沿岸漁業」や交易などでかなりの利を得ていたのも確かだろう。

 現在の黒田舘は中腹に義経北行伝説が残る「ハンガンサマ/判官稲荷神社」があり、神社奥宮の上に本丸、二の丸とおぼしき丘はあるが、近年は畑として開墾されている。舘の南側は切り立った「ガッケ/崖」で真下が中央通り、西側も「ガッケ」で真下が本町だ。舘に通じる道は北側の尾根沿いか北西側の神社登り口だけであり前面は直登不可能な天然の要害を備えた山城でもある。と、まぁ、今になってその地勢を表現すればそこに中世の舘があったらしいと思えるが、黒田舘は多くの宮古人にとって『十字架山』の呼び名の方が知られている。今月は舘跡の遺跡であり特殊な墓地であった十字架山の思い出を振り返ってみよう。

 母親の実家が「キュウダデ/旧館・愛宕の別称」だったこともあり、僕は「キュウダデ」の「ワラスガドー/少年たち」に「カダッテ/混ざって」、「アダゴサン/愛宕神社」から「ハッコーダイ/八紘台サイレン」「錬成館」を経て十字架山あたりを「ハッサリッテ/走り回って」いた。愛宕方面から十字架山へ向かうには「スイドーキョグ/俗称・送配水所」から獣道を頼りに道なき道を行くか、一端「オグラノサワ/御蔵沢・中央公民館の坂」を下り、途中から山道を登った。秋口になると周辺は茶色のカマキリや大きな「ハッタギ/バッタ」もいっぱい取れて自然の宝庫だった。十字架山の手前(愛宕側)には文字通りちょっと「ボクサッタ/あまり立派ではない」感じの木製の大きな十字架があった。十字架は白のペンキが塗られた痕跡があり高さは約5メートルほどで、この十字架は木々が落葉すると冬枯れの山に目立ち市役所からも見えた。十字架周辺にはテレビのアンテナがいっぱい立っていて十字架があっても聖地という感じはしなかった。木製の十字架の真下は当時の丸石家具店あたりで「スズガッコニステ/静かにして」耳を澄ますと自動車の音や中央通りに有線で流れていた♪にーこにーこしちゃった、買い物上手はママのコツ…という日専連の宣伝文句が聞こえたものだ。

 藪の間から見えるほんの少し下は映画館やレストランがある街中なのに、十字架山は濃密な自然が漂っているのだった。木製十字架モニュメントから少し西側へ下ると閉伊川河口からラサ、小山田、宮町まで一望できる展望所に出る。そしてやはり耳を澄ませば中央通りの喧噪も聞こえる。当時周辺は畑ではなく陽当たりのいい小さな「ノッパラ/野原」で奥にコンクリート製の数本の十字架が立っていた。十字架は高さは80センチほどでぶ厚かったから、西洋のキリスト教式の埋葬習慣は知らなくとも、少年たちはそれが死者を葬った「オハガ/墓碑」であることを理解していた。周辺には十字架の他に石棺のようなものもあり、ただならぬ雰囲気が漂っていたがさほど「オッカネー/怖い」雰囲気ではなかった。

 十字架山での遊びはやはり笹竹で作る「ツキテッポー/豆鉄砲」を使った戦争ごっこだ。当時の少年のほとんどはヒゴノカミという切り出しナイフを持っておりこれで笹竹を切って「ツキテッポー」を「コッツェーダ/作った・拵えた」。「ツキテッポー」は銃身となるシリンダと、弾を押し込む棒部分があればいいだけで難しくはない。問題は弾の方だった。秋には十字架山周辺や常安寺周辺に「ドンタマ/植物・ジャノヒゲ」という小粒の固い実が成るのでそれをとって弾にしたが、それ以外の時期はちり紙を口の中で「タンペ/唾」と混ぜてそれを弾にした。紙を口の中で溶かして「タンペ」で濡れた弾は次弾を笹竹に押し込むことによりシリンダ内の空気が圧縮され弾が「ポン」と勢いよく飛んだ。しかし、長時間紙を口の中で噛んでいると吐き気がしたり、何より「タンペ」で濡れた弾が飛び交う光景はかなり「ヤバツイ/汚い」。

 街中なのに自然の宝庫だった十字架山は動物の棲み家でもあった。遊んでいよく目撃されるのがカモシカだった。カモシカは宮古地方の方言で「アオジシ」あるいは「アオズス」と呼ぶが、これはカモシカの毛色が馬の青鹿毛(あおかげ)に似ているから「青獅子」となったものと思われる。十字架山の「ウラッケー」はv字の「ホラコ/山の窪み」になっていて、この附近にはその昔「テッポーヤ/佐藤銃砲店」の射撃場があったという。冒険と称して山を徘徊してカモシカに遭遇し騒いでいるうちはいいが、たまに沢田方面から十字架山に登ってきた町の少年たちと鉢合わせになることがあった。当時の少年たちは今よりずっと地区意識が強く双方の人数にもよるが危険な雰囲気が立ちこめることもあった。

 月日は流れそんな時代から十数年が経ち、僕は再び十字架山を訪れる機会があった。それは昭和55年頃であろうか。本誌のコラムを書くためロケハンに行ったのであった。今回の写真はその時に撮った十字架の墓碑群だ。その後も十字架山には文頭で述べた『閉伊氏』『黒田舘』『義経北行伝説』などの歴史特集や企画の度に登った。一番最近登ったのはなんと東日本大震災の三日後、誤報だった津波警報で避難と撮影のポイントとして登った。そこにはすでに十数人の人がいて午後陽で光る宮古湾を眺めていた。眼下には津波で破壊された中央通の街が無残な姿のまま佇んでいた。少年時代に街から聞こえてきた日専連のテーマソングが心を過ぎ去り悲しかった。

懐かしい宮古風俗辞典

おんずー&ずっつー

成人した跡取り以外の次三男&おじいさんの別称

 久々に宮古弁にハガキをいただいた。9月号のクイズの解答がおかしいという。詳細は編集部で表記した宮古弁「オンズー」とその答え「おじいさん」についてだ。ハガキには「オンズーとは、おじいさんではなく、おじさんではないでしょうか?大人になった長男以外の兄弟をオンズーと呼ぶ。おじいさんはズッツーだと思います」というものだった。まさにその通りであった。「オンズー」とは跡目にならないでその家を出て行った兄弟たちを指すのでであった。横溝正史のミステリーなら父親の葬式で実家に戻り、遺産の分け前にあれこれ文句を言う兄弟たちということになる。そんな訳で9月号のクイズの解答でオンズー=おじいさんであったものを、オンズー=おじさん・成人した跡取り以外の次三男と訂正いたします。ちなみにハガキを送ってくれたのは市内仮設住宅の77歳バッパーさんでした。ありがとうございます。津波で家や財産を流され失意のままだろうが宮古弁を愛し糧として明るく乗り切ってほしい。「マゲデラレネーガ」「ガンバッペス」とエールを送りたい。そしてこれからも御愛読よろしく。

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