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2012/08 田老地区の地名の成り立ちを考察する

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 いつの時代も地名の成り立ちについては諸説あって多くの研究者が様々な推論を打ち立てている。地名は基本的にその土地の特徴や特異性を呼び名にしたものに強引に漢字を当てりしたものが多いようだが、そんな諸説のなかにはアイヌ語説もありすべての地名をにアイヌ語のフィルターをかけて説かれたもの多い。しかしながらアイヌ語説だけでは割り切れない説明不足な部分も多い。

 明治になって新たな検地と初歩的な国土調査が行われると土地の呼び名、すなわち地名は重要なファクターを持つようになり地名=地図として最終的には現在のカーナビなどのデータへと進化してきた。地名の成り立ちと言えばよく聞かれるのが「宮古の地名はどっからきたのか?」という質問だ。これに対しても諸説あるが僕の考えは「みなと」からの転訛であり、やはり宮古は海のまちで港として発展してきた歴史が地名にも反映していると思う。さて、今月はそんなことを考えながら田老地区を巡ってみた。

 田老は平成17の年宮古市との合併前は田老町として独自の行政機関をもつ三陸沿岸の町だった。田老町は藩政時代には田老村として存在し明治22年周辺の乙部村、末前村、摂待村が合併し新しい田老村となってその後、昭和19年に町政を施行した。田老の地名の起こりについて記載した資料はないが、田老を「太郎」と転訛しこれを「垂れる」そして「下る」と変化させてゆくと尊い何かが「天下った」場所的地名とも考えられる。日本の昔話には浦島太郎をはじめとして「太郎」が主人公の物語が多く「太郎」とは民衆の姿をした「ハレ神の象徴」であったかも知れない。男子の名前にも太郎の文字が多いのもそんな理由からと考えられる。ともかく「田老」という地名の由来は不明であり本稿はあくまでも仮説の域であることをおことわりしておく。

 藩政時代の田老村は宮古代官所の直轄地で、楢山氏を筆頭に南部藩に仕えた家臣らの知行地であった。家臣等はまた自分の家来にその土地の管理を任せ年貢を搾取していた。ちなみに楢山氏の家臣は舘氏、鳥居氏、舘石氏、三浦氏らの連名がある。田老最北の摂待村は天正19年の九戸政実の乱で功績をあげた久慈孫八郎(久慈市)に与えられたの知行地だった。摂待村は拓けた農地と牛方が盛んな土地で海産物や塩、鉄などを秋田方面まで運んでいた記録が残されている。

 田老村から北へ向かう街道は、野田氏の知行地だった乙部村を越え旧街道から越田の部落へ入り北へ向かうと、現在の道の駅付近に出る。この辺りは「新田」という地名で文字通り、山林等を新たに耕作し農地とした歴史が残る。おそらく炭焼きなどの入植者が入り込んだまま定着した地区と思われる。明神岳(498)から尾根ぞいに海へ突き出した岬は明神崎で、その昔、このルートは大きく迂回した難所であったはずだ。現在、この大きな谷には真崎大橋が架かり国道45号線が通る。橋の下には「青野滝」の地名の起こりとなった真っ青な滝壺の青野滝がある。橋を渡ると「つかの峠」という小さな峠がありその北側は堀内の部落だ。この附近は大規模な海岸段丘で縄文遺跡が眠っている。現在仮設住宅が建ち並ぶグリーンピア田老附近は「向新田」の地名だから、ここもまた入植者が入った土地と思われる。ここから北へ向かうと「水沢」に入る。ここは峠に清水が湧くことから「水の坂」が転じて「水沢」となったと考えられる。国道45号線はここから大きく東に迂回して海側から摂待へ下るが、旧道は幕末の藩主領内視察の際に藩公が峠の名水で咽を潤したという摂待南大嶽峠を経て摂待へ入った。摂待は先にも述べたが久慈氏の知行地で、ここからつづら折りの難所である北峠を越えて現在は岩泉町管内の「小成」へ入る。小成の「成」は変化を表わし川が海へ変わることを意味すると思われる。この部落と下流の茂師の港を支配していたのは小成氏だ。熊の鼻の峠を下ると「小本」だ。ここは宮古代官所代官の小本氏の知行地だ。北の田野畑方面、西の岩泉~盛岡方面への分岐点であり、藩政時代には小本川に多くの鮭が遡上した豊かな土地であった。おそらく摂待、小成、小本の各地区はその土地の権力者の苗字がそのまま土地の名前に流用され、新田、向新田は入植者が入った新開地、水沢、青野滝はその土地の特色を地名としたものと思われる。石碑は堀内地区の天照大神宮鳥居脇にある西国塔、馬頭などの石碑群を撮影した。

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