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2012/07 動物の浮き彫りがある石碑

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 文字が読めない人のためだったか、石工の技術が巧みだったのか判らないが石碑の中には文字以外の模様や図形が彫り込まれているものがる。それらの多くは巧みな浮き彫りで表現された不動明王や青面金剛などの仏尊だったり、稚拙な線彫りで表現した月と太陽を表す日天・月天、雲と如意宝珠、仏が乗る蓮の葉を模した台座、そして石碑の意味に準ずる馬、牛、猿、酉などの動物だったりする。これらの図形や意匠によって石碑の文字を読めない人も石碑の意向や目的を直感的に知ることができる。今月はそんな図柄の意匠がある石碑群の中から、動物を表現したものがある石碑を巡ってみた。

 最初に訪れたのは田老の摂待地区だ。摂待地区は中心を流れる摂待川をはさんで南北の岬が海岸までせり出し、そのまま南北の大きな峠となった地区で南は水沢地区の水取の沢がある峠、北は岩泉町小成へ続く峠で昔はどちらも結構な標高で険しい山道だった。このため摂待へ入るにはこの両峠を避け、西側の畑地区を経て上有芸へ通じる街道が主な交易路であったと思われる。現在は水沢地区から山の斜面を下りながら摂待へ入り、大きく迂回した後にトンネルで小成地区へ抜ける国道45号線があり往時の難所のイメージは希薄になっている。その45号線も昭和45年の岩手国体を契機に整備されたが、宮古以北の整備前の国道は未舗装で道幅もせまくトンネルもなかったため各地区へ入る峠は田老、摂待、小本など羊腸の葛折りだった。

 さて、そんな摂待地区の北峠の旧道にあるのが最初の石碑だ。正確には国道45号線の旧道のまた旧道、すなわち江戸期に使われた沿岸の部落をつなぐ浜街道だった道の峠にある。碑は中央に三峰神社、牛馬安全、右に勧請安政五年戌午(1858・つちのえうま)四月五日、左に明治二十五年壬辰(1892・みずのえたつ)四月五日とあり、台座前に寄附人・牛馬持一統、世話人・畠山長之助、台座後ろに奉納品、棟札・安政一枚、鉄剣・一本、短刀・一本、長刀・一本とある。石碑自体は簡単な屋根がある祠に納められており横には小さな御宮が並んでいる。このことから江戸末期の安政期に峠道に牛馬安全と地区を守る塞ノ神とし石碑を建立し、維新後に石碑を守ため鞘堂のような祠を建て神社のように祀った経緯が見えてくる。その後、国道が整備されこの古い峠を通る人は減り信仰が廃れてしまったものと思われる。

 石碑には三峰神社の御神体でもあるつがいの狼が浮き彫りされている。三峰信仰は埼玉県秩父の三峰神社を信仰するもので江戸期にはお参りなどの講も流行した。ご利益として畑を荒らす狼を除ける「お犬様」として、ひいては悪者だった狼が逆に火事や盗賊から家財・財産を守る守護神として崇められた。ちなみに明治期になり畜産、酪農が発達し林野で牛を放牧する牧畜が盛んになると家畜を襲うニホンオオカミの駆除が本格化し、ひいては絶滅へと追い込んでしまった。拝み、崇め、最後には有害動物として駆逐してしまう人間の愚かさを感じる石碑でもある。

 次の石碑は田老越田地区の石碑群にある牛馬供養塔だ。石碑は江戸末期から大正期に建立された牛馬供養、牛頭供養、大威徳明王塔など数基の牛や馬に関係した一群の中にあり、中央に牛馬供養、右側面に文政四年甲子(1821・きのえね)、左側面に二月吉日、台座正面に馬と牛の浮き彫り、台座側面に願主・伊兵衛、伊三郎とある。田老を通る国道45号線は旧市街を抜け越田地区の下の山腹を走るが、昔は町場を過ぎてから青砂利地区を経て北の墓所を経て峠を越え、一端越田に入り北へ向かったと思われ、この道が当時の街道だったと思われる。

 次の石碑は鍬ヶ崎蛸ノ浜地区の心公院入口の石碑群にある馬頭観音だ。石碑は中央に馬頭観世音、右に文久三癸亥年(1863みずのとい)、左に八月吉祥日、石工亀(マーク)次とある。亀次が刻んだ同様の馬頭観世音は腹帯の石碑が安政二年(1855)、千徳羽黒神社入り口の馬頭観世音が萬延元年(1860)であるから亀次はこの時代に活躍した石工だったことがわかる。石碑下部には10名ほどの連名があるがその部分はアスファルトに埋もれており判読不能だ。石碑には頭を向かい合わせた馬が二頭浮き彫りされており威厳がある。石碑となっている石材も吟味され、右側にあたかも牛馬を繋ぐような穴がある特殊な形状だ。

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