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2012/04 弁天社と大弁財尊天石碑

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 震災後特別号の発行もありしばらく石碑を探して歩いたりしていなかったがまた以前のように市内の石碑や神社を巡ろうと思い、今月は弁財天関係の石碑や社を訪ねた。

 最初に訪ねたのは腹帯地区の弁財天の石碑だ。石碑はJR山田線の腹帯トンネル付近のにあり、線路を越えた数メートルほど登った岩山の凹みにある。位置的には国道106号線を宮古から盛岡に向かった場合の腹帯地区、大淵手前で追い越し禁止になるカーブの所であり、古くは腹帯氏の館跡であり現在神社になっている館山の北にあたる部分だ。現在そこに昭和9年に開通した山田線のトンネルがあるが、それ以前は大淵を迂回して腹帯村に入る峠の入口だったかも知れない。岩の凹みは街道の目印でありそこに何らかの御神体が祀られ後に木製の社が奉納されたものだろう。石碑は社前にあり中央に大弁財尊天、右に昭和二十四年(1949)左に旧四月二日とある。

 次に訪ねたのは黒森神社の脇侍として祀られている弁財天の社だ。古くからその地区を代表する神社、例えば宮古町合併前の村社であったり、藩政時代以前から存在した神社には長い間のうちに様々な信仰媒体が集まってくる。これらは稀に神社創世記からあり、いつの時代か信仰媒体が変更され以前の信仰媒体と新しい媒体が入れ替わることもあるが、他所で祀られたものが習合する場合がほとんどだ。大きな信仰媒体に取り込まれた媒体はその媒体を守護する脇侍として伝説や逸話が語られ、いつしか同化してしまう。また、近年は信仰媒体を管理する家が絶えてしまい社ごとおおきな神社に習合することもあるようだ。そんななかで黒森神社は当地方でも最古と言われる古文書をもつ神社でその創設は室町以前とも言われる。古くは神社としてではなく寺として存在し、江戸初期に廃寺となった安泰寺とともに黒森観音として大きな信仰エリアをもっていた。そのような神社であるがゆえに長い時間をかけて習合された媒体も多く、今でも境内には弁財天、白山神社、稲荷神社、不動尊、薬師神社などが点在する。黒森神社の弁財天は神社に登る石段の最上部にある池の島にある。社にはコンクリの橋がかかり内部には弁財天らしき木造がある。社は見たところ基礎や土台も新しく何度か建て替えがあった近年のもだが、内部の棟札には厳島神社の文字もあり、元々は別の媒体であった社に弁財天の神像を置いた可能性も考えられる。

 次の写真は震災から一ヶ月後に撮影した磯鶏とど浜と飛鳥田浜の間に祀られた弁財天の石宮だ。ここには旧磯鶏村時代の庚申塔や水神塔石宮、八大龍王石宮、大弁財天女の石宮があったが、津波とともに押し寄せた木材などで倒された状態だ。弁財天石宮には正面に奉納大弁財天女、子孫代々、祈願成就、右側面に昭和二十四年三月三日(1949)左側面に願主・橋場勝郎の名がある。この附近は藩政時代の磯鶏村の浜で、八木沢川河口として地引網漁が行われていたが昭和40年代初期に藤原須賀から神林地区までが重要港湾として埋立されその後は木材港として貯木場となった。とど浜跡に今もあるくじら松の老木は藩政時代に鯨の大群が宮古湾に押し寄せた際に捕まえた鯨の権利を争い藤原須賀を漁場としていた鍬ヶ崎衆と磯鶏衆がいがみ合った逸話が残る松の木で、主張し合う両村の論争を尻目に捕獲された鯨は自力で逃げたという伝説がある。

 最後の写真は日出島地区の弁財天石宮だ。太平洋に面した日出島地区は約40メートルの津波の直撃で漁港施設と海に近かった民家殆どを失った。弁財天の石宮があった岬も波をかぶり社は大破したが、その後石宮は回収され被災した漁港の端に置かれていた。写真は被災から20日ほど経ってから撮影したものだ。この神社はその昔、日出島地区のシンボルでもある日出島の北西部にある通称・蛸穴の断崖に祀られいたが、参拝等の難儀があり地区の岬に移転したものだという。

 弁財天は「辯才」や「弁財」と記され両者の意味は漢字的にはかなり違うが、才能に長けて財を増やすという意味で広く信仰される。インドのヒンドゥー教の神が仏教に習合したもので六臂の女神座像で表されるが、江戸後期には七福神に取り込まれ琵琶を奏でる美麗な女神として信仰された。水や鉱泉、鉱脈を表す蛇を使役し宇賀神、九頭竜、妙音天などとも習合しており展開は幅広い。宮古では弁天崎、弁天岩、弁天丸など定置網や磯岩、漁船の名前にも多い。

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