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2012/04 大震災から一年が経った

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 あっという間の一年が過ぎ去った。去年の今頃は「ナアドスッタターベ/何をしていたんだろう」と振り返ってみると、あまりにも色々なことがあってどこから思い出せばいいのか「ヒトヅモワガンネー/ひとつもわからない」。宮古はじまって以来というほど大きく被災し500人を越す宮古市民が一気に亡くなった東日本大震災、あの日、大切な思い出と財産が詰まった家を流され避難所で夜を過ごした人たちには申し訳ないが「ヨンマオソグ/深夜」にやっと崎山の「ワガエーサ/わが家に」辿り付き、帰る家があり家族の安否が確認できたことは本当に幸せなことだったと今更ながら実感する。だが、あの日の状況を思い起こせば紙一重の時間差で自分が今ここにいることがわかる。発行したばかりの3月号を市街地でも最大級の被害となった鍬ヶ崎の衣料品店へ配達し帰りの光岸地で地震に遭遇、その足でやはり大きく被災した藤の川のホテルへ配達した。停電し止まった信号を尻目に国道を走った。「イッサギパナ/石崎鼻」の「ガッケ/崖」が崩れて片側通行だったり、藤の川付近の45号線が工事中で片側通行だったりしたのだが、あの時車を運転していた人たちは皆ギリギリの車幅でそこを通過していた。僕が藤の川のホテルに着くと従業員たちが外へ出て宮古湾を見ていた。津波が「クッペーガ/くるでしょうか」との問いにたぶん「クッペーネ/くるでしょうね」と答えたがお互いの心の中では津波が来ても1メートルに満たないだろうという認識しかなかったのは否めない。

 震災翌日、宮古へ行ってきたという人は「ミヤゴハ、ハー、オワリダ/宮古はもう終わりだ」と言う。「ヒツァカブ/膝」まで入るような泥と流れた家で築地は通れないしそこら中に遺体があるという。しかしそれほどまでの大被害だというのに情報は入ってこない。これは自分の目で確かめるしかないと思い燃料警告灯が点いた状態の車で出掛けた。震災時侵入禁止となった宮古病院前ゲートは無人になっており通過できたので、ひとまず浄土ヶ浜大橋へ向かった。橋から見た鍬ヶ崎の変わり果てた姿に愕然としたが蛸ノ浜町の叔父の家はなんとか無事であることに安堵した。その足で臼木山から日立浜に降り写真を撮った。次に向かったのは「キューダデ/愛宕の俗称」の親戚の家だ。津波がくる1ヶ月前に伯母の葬式を出したばかりだった。愛宕小学校に車を置いて歩いて行くと顔見知りに会ったので親戚のことを聞くと津波で家は壊れたが無事らしいという。水没自動車を除けながら五分団前まで行き安否を確認し無事を喜び合った。帰り道、愛宕の峠から歩いて「オグラノサワ/御蔵の沢・中央公民館の坂」を下りて市役所分庁舎へ出た。ここでは長靴を履いていなかったのでので分庁舎横から写真を撮るだけだった。いつも「ササッテダッタ/常連だった」喫茶店も水没し泥だらけになっていた。

 翌日は燃料が「ペンコノ/僅かの」車は諦め、隣の家から自転車を借りた。45号線は築地が通れない状態なので中里から「オデラノサガ/常安寺墓所」を下り街中の状態を撮影した。知り合いのそば屋、ラーメン屋、レストランなど、皆無事だったが親しかった知り合いや従兄弟親戚に犠牲者がいたことを知らされ「エーアノヒトガスカ/そんな、あの人がですか」といたたまれない気持ちがこみ上げた。まだ「カワガネー/乾かない」泥道となった市役所前交差点を通過し流出家屋が道を「フタイダ/塞いだ」築地を自転車を押しながら通過、「コーガンズ/光岸地」、出崎、鍬ヶ崎と回った。途中何度か大きな余震があり誤報だったが津波警報が出された。誰もいない鍬ヶ崎の旧魚市場での津波警報はさすがに「オッカナガッタ/怖かった」。仲町の銭湯附近を通ると女将が片付けをしていたので話しを聞いた。津波後無人になったのをいいことにレジを荒らしたり物を盗む「カッパレー/泥棒」がいるという。仲町から下町はまともに歩ける状態ではなかったので移動を断念、自転車を担いで七滝の沢の石段を登った。自転車はシティーバイクだったので「カンヅグド/担ぐと」重く肩にのしかかり沢を登って国道に出る頃には膝がガクガクした。その後、近くに住む友人がしばらく自転車を貸してもいいというので好意に甘えた。今度は21段変則の軽いマウンテンバイクだ。これで崎山の坂や帰りの佐原の坂も楽になる。結局この自転車を震災後一ヶ月余り使わせてもらった。車はガソリンがないうえ車検が切れ特別号を編集するための会社への通勤もずっとこの自転車だった。

 久しぶりに会社に来たのは震災後10日以上過ぎてからだった。会社も印刷所も山手なので津波の被害はなかった。しかし、電話もネットも通じない状態でやる仕事もないから、『がんばろう宮古』というシールを作ったりした。だが編集業務は手につかずいっそこのまま本誌を「フテナゲデ/投げ捨て・廃刊して」別のことをやろうかとも思った。スポンサーの7割ほどが被災し取り扱う書店もコンビニも開いていない。こんな状況で雑誌なんか出して誰が買うんだ?と思った。しかし、長年続けてきた宮古のタウン誌としてこの大被害を誌面に残さずして終われないという思いがあったし、これが最後でもとにかく記録を残さねばならないというちょっと「ショースードモ/恥ずかしいが」これでも地方メディアとしての義務感もあった。そんな紆余曲折の中で発行したのが、あっと言う間に売り切れてしまった震災特別号①だった。しかし、その増刷重版には並ならぬ苦労があったのも事実だ。被災地で編集し被災地で印刷することにこだわったが、そこに追い打ちをかけたのが紙不足という事件だった。宮城県の海岸線にあった製紙工場がのきなみ被災し全国的に紙不足状態となったのだった。紙は注文してもある一定の量しか入ってこない。雑誌は売り切れ書店から注文が相次ぐ、編集部には何度本屋に行っても入手できないと苦情が相次ぐ。朝から夜まで電話は鳴り止まない。納品しても、納品しても焼石に水…。配達と集金に追われ次号の編集も手に着かないのに、次はいつ出るんだと催促の問い合わせ…。そんな去年の5月、震災から2ヵ月が経っていたことを思い出す。

懐かしい宮古風俗辞典

いすけんずーいすまず、たいまず、はさみが三本

ジャンケンの掛け声の一種。昭和20年代後半から30年代半ば頃の市街地で使われたもの。

 少年時代、宮古中の各地区を頻繁に引っ越した自分は様々な地区においてジャンケンの掛け声が違うということを小学校低学年の頃に知っていた。と同時に遊びの形態や名称、ルールもその地区によって違っていた。今は宮古市として当たり前の千徳や山口、津軽石、磯鶏などの地区もひと昔前はそれぞれが村として独立した行政区であったから、子供たちの遊びやジャンケンの掛け声も違っていたのであろう。戦時中、戦後と各地区は宮古市に合併したが昭和40年代頃までは地方色として各地区のローカルジャンケンや遊びが生きていたのだが、テレビメディアにより近年のジャンケンの掛け声は「最初はグー」が一般的になってしまったようだ。宮古のローカル掛け声の中には様々なものがあり、やはりその時代時代で少しずつ変化があり同地区でも学年がひとつ違っても掛け声が違うということもある。宮古のジャンケンの掛け声は鍬ヶ崎、愛宕方面の「キャーアンデ」千徳方面の「イツケット」をはじめ「キュキュノキュ」「イスケンズー」などがある。もちろんノーマルな掛け声「ジャンケンポン」も使われたがこちらは「ジャンケンポイ」だったような気がする。現在50代以上の人にとっては懐かしい掛け声でもある。

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