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2012/02 さまざまな慰霊碑を順禮する

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 自身と津波による大災害で多くの人が亡くなった昨年であるが、いつの時代も事故や災害はあるもので尊い人命が失われてきた。今月はそんな犠牲者を弔うための慰霊碑やかつての集落跡に建てられた慰霊碑を巡ってみた。

 最初に紹介するのは新里地区三ツ石から川井尻石地区につながる林道沿いにある石碑だ。この林道は広域基幹林道三ツ石線で、途中に東北電力腹帯水力発電所の貯水ダムがある。石碑は貯水ダムを通過し数キロ進んだ道路沿いにある。碑には当地合葬諸精霊供養塔、昭和六十一年(1986)九月吉祥日、功徳主・熊谷建設株式会社とあり、背面に広域基幹林道三ツ石線第一工区間建設工事、総延長一一二○三米、完成平成十二年(2000)八月、請負者・熊谷建設株式会社、社長・熊谷勝文、建立・平成十二年八月吉日とある。建設工事会社が供養塔を建てたのはこの林道が昭和40年代末期頃に閉村となった開拓村の民家跡を通っており、おそらく多くの土葬人骨や墓碑などがあったためこれらを一箇所に集め合葬し供養したものだろう。この地にはかなり古い時代から炭焼きなどを営む山から山へと移動する漂泊の民が住んでおり、通称名で千ノ平(せんのだいら)と呼ばれていた。林道工事は1986年から着工しなんと14年もかかり尻石地区までつながった。この林道の頂上となる禰々子森(ねねこもり1010)の尾根沿い蓬平付近には絶景の展望地があり快晴時には北上高地の山々と岩手山までを一望できるという。新里や川井地区の山間部には山を生業とする山の民が作った開拓集落が多く、今でも深山の僅かな平地にも耕作地跡や人家跡が残っている。これらの土地に住んでいた人たちも木材や炭の需要が落ち込み昭和40年代から50年代にかけて里に降りて定住したり別の土地へと移っていったという。

 次の石碑は茂市太長根地区の国道沿いにある閉伊川水位観測施設に並んで建立され、中央に殉職碑、上部に千葉武治、川井正男、台座に昭和二十八年(1953)七月廿一日没、九哲建設建之とある。しかし、宮古市の年表でこの年の災害を調べたが6月6日に台風2号により被害が出ているが7月の災害記録はない。また九哲建設という業者に関しても資料がないため今となっては殉職した理由が判らない。石碑は金網で仕切られた閉伊川の水位観測局横にあり、碑がこの観測施設に関係するのか、旧国道106号線沿いに突出した岩場でもあることから道路に関係するのかそれが判明すれば切り口が見えてきそうだ。

 次の石碑は北川目地区にある山神の社の鳥居下にある。碑は中央に山事故即滅供養とあり、右に明治二十年(1887)ヨリ昭和十三年(1938)マデニ山ト道路デ十七人死ス、左に昭和五十一年(1976)三月建立、石工・阿部才助とある。石碑が示す山事故は遭難や転落の他鉄砲の事故なども含め、山での事故が無くなるよう祈願するとともに注意を呼びかけている。稚拙な文字だが印象深い石碑だ。

 最後の石碑も長沢北川目地区の民家前にある。碑は中央に南無阿弥陀佛、右に昭和十八年(1943)十月道路ヲ開通、自動車事故ニテ当地デ死ス、下部に上有□、佐藤正一、宮古、木村清三郎、長内、長内忠作、阿部才助とある。昭和18年に開通した道路はおそらく現在の北川目から腹帯へ通じるわらびの沢林道の旧道であろう。この道は藩政時代からの街道で閉伊川街道を腹帯から北川目、南川目に抜け、豊間根、山田へ通じるショートカット的道であった。昔から整備されてきたが数年前にやっと整備が終わり基幹林道として全面舗装で開通している。事故があった当時は自動車が通行するには路肩も弱く危険な道だったであろう。

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