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2012/01 御農神として祀られる地の神

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 近年になり石碑は区画整理などにより一箇所に集められたり近くの寺や神社の参道に集められたりするが、今回のように大津波による流失だと土砂や瓦礫に埋もれたりしたまま行方不明になってしまったものもあると思われる。そんな事情もあり数年前に宮古市教育委員会がまとめた『宮古市の石碑』という冊子も沿岸部を調べた部分は相当数で見直しが必要であり、石碑散策の大きな道標を失ってしまったことになる。さて、そんな状態だが今回からは震災以前の流れに沿った通常通りの石碑順禮として散策してみた。今回テーマにした石碑は地の神(じのかみ)だ。これは基本的に豊かな作物を育む農耕神であり、同時に日照と水にも関係する土着の信仰媒体だ。読み方は「ちのかみ」天神に対して「じじん」でもいいが、宮古地方では「じのかみ」が一般的な呼び名だ。神仏が混合し自然や宇宙が合体した土着系の神様は比較的蛇を御神体としている場合が多い。これは蛇が生命体として独特の形状であること、蛇が畑を荒らすモグラやネズミを捕食することとに由来する。しかし、実際の御神体として祀られるものは製鉄関係の遺跡でみつかる溶けた鉄の塊だったりする。これらを蛇として見立てる思考がどこから発生したのかは判らないが、地の神は製鉄や鍛冶屋神にも通じており鍬や鋤などの農具にもつながっている。人は自然の力にあらがえないが、鉄で道具を作り豊穣を生む工夫はできるのである。また、蛇は江戸後期に仏教、道教、神道などの神様がごった煮的に習合した七福神の弁財天が使役する動物としても有名でこの組み合わせから蛇は財力の象徴とされた。蛇革の財布などはまさにその御利益を得るためのもので昔から絶大な呪力を発揮すると信じられてきた。

 さて、そんな地の神を探して最初に訪ねたのは津軽石駒形地区だ。石碑は閉伊氏の伝説に登場する馬・奥州黒号にちなんだ駒形神社から浄仏森を経て十二神山へ向かう林道沿いにある。この道は地図上では重茂地区の十二神山自然観察林付近に通じているが、深部はそうとうの悪路で四駆であっても自動車での走破は難しいとされる。石碑は1メートル以上の山神塔、金比羅大権現の石碑などと並んで建っているが45センチほどの高さしかないので夏場は草に隠れてしまう。石碑右側に大正十四年(1925)一月廿二日の年号がある。

 次の石碑は堀内地区の地の神だ。石碑は宮古市文化財『コブシの木』がある民家から川をはさんで対岸の民家の敷地内にあり、お稲荷様の赤い祠や稲荷大明神の石碑などと並んで建っている。敷地内には二基の地の神があり、古い方は江戸期の文久二年(1862)□十月吉日の年号がある。もう一方は右側面に明治十三年(1880)の年号がある三角形の石碑だが中央部に「地神、地神」と重複で碑文がある。まさか山神、地神あるいは水神、地神と刻むところを間違えたのではあるまいが、地神、地神と刻む形態は珍しいと思われる。

 この地区には戦前に月山の中腹あたりから掘り進んだ鉱山があったと聞いたことがある。おそらく戦前に軍需産業で需要が増した鉄鉱石の部類を掘ったと思われる。この話しをした人は坑道は宮古湾より低く海の底あたりだったのではないかと話していた。この鉱山の稼働時期やおおまかな経営母体、鉱山名称は忘却の彼方である。また、堀内地区を流れる黄金淵の沢には重茂の麦尾曾利(むぎおそり・伝説の村)にいた長者が盗賊・破法坊に追われ砂金を持って逃走したが追いつかれ、やむなく沢に砂金を投げ込んだという黄金伝説がある。この地区には古来から「小金渕(こがねぶち)」の姓を名乗る家もあり、長者の投げ込んだ黄金(こがね?)からこの名字が生まれたという説もある。 黄金伝説があり鉱山があった事実から、おそらくこの周辺はかなり古い時代から製鉄集団の村が点在したと思われる。鉄は武器にも通じ武装し財力のある村を襲い財宝を奪うこともできる。このことから鉄=金であり黄金淵の伝説もこの地区にある地神もまんざら無関係ではないかも知れない。

 最後の石碑は根井沢地区の地の神だ。この石碑は上部に太陽、三日月があることから日天月天を意味し同時に庚申講の忌みを表している。年号は明治四十一年(1908)十一月十五日とある。地区を流れる根井沢から拾い上げた石を使ったもと思われ水神碑と並んで建っている。ちなみに根井沢地区の上流部にはやは鉱山があり、その昔はJR津軽石駅から鉱石が運び出されていた時代もあったという。

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