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2011/12 辰年にちなんで龍神の石碑を巡る

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 歴史的大惨事となった3月の東日本大災害だったが、あれから8ヵ月が経ち2011年も終わろうとしている。今年は十干だと辛卯(かのとう)の年であった。今更過去の記録など気休めにもならないが、卯年は歴史的な大災害や事故の当たり年で幕末に江戸を震撼させた安政2年(1855)の安政大地震、天明3年(1783)には浅間山大噴火が起きている。明治に入り直下型地震で約7000人の犠牲者を出したという明治24年(1891)の濃尾大地震、3000人規模の犠牲者を出した昭和2年(1927)の北丹後地震が発生している。天変地異や大地震はある一定の周期でやってくるとされるが、それらは過去の歴史に強引に数字を当てはめただけであり、対地球で考えれば人間の予測や計算で測れるほど災害予測は甘いものではないだろう。どんなに文明が発達し人に理性や常識があろうが、未曾有の大災害に接すれば人間なんてたわいもないものなんだと今回知らされたような気がする。

 さて、今月は卯年の次の干支にちなんで辰=龍関係の石碑や神社を巡った。最初に行ってみたのは崎山の宿漁港だ。ここには若宮神社と八大龍王の石碑があったのを記憶していた。確か石碑があったのは防波堤などが整備される以前の宿浜の先端部だった。宿浜にあった民家のほとんどは津波に呑まれ大破、海から最も遠かった二軒も波をかぶり現在は解体撤去されている。そんな大被害の漁港で石碑が見つかる可能性はかなり低い。漁港周辺を歩くと案の定石碑は流され元の位置にはなかった。それでも二基あった石碑のうち一基を15メートルほど離れた草むらで発見。石碑は上部が破損してはいたが、右に若宮弁財天(若宮部分破損)八大龍神供養塔(八大部分破損)と文字を読めた。本来左に亀岳大明神とあるはずだがその部分は割れて紛失していた。資料によれば石碑裏に嘉永四亥年(1851)正月吉日の年号と姉ヶ崎鮪建網・藤井、川上らの連名がある。

 次に向かったのは田老青野滝地区の青野滝漁港にあった龍神塔だ。青野滝は南の真崎と北の明神崎を結ぶ外洋に面した湾の最北部にある小さな漁港だ。真崎から青野滝は小さな隧道が連続する海岸線道路で結ばれるが時化ると通行できなくなる。折しも震災前の年末の大時化で道路は決壊した状態で通行止めだった。そこへ直撃で津波が来襲し道路は完全に壊れてしまった。青野滝漁港も防波堤や消波ブロック船だまりなどが完全に大破し番屋も流された。民家がある高台は無事だったが高台から浜へ降りる道が波をかぶり路肩が弱ったまま現在に至る。石碑は番屋横にあったはずだと記憶していたが流失の可能性が高いと予測して浜へ降りた。高い波が打ち寄せる中、真崎方面を見ると崖崩れの落石とめちゃくちゃに壊れた道路が見える。そして番屋があった場所の大きな岩の上に龍神塔が建っていた。震災前この石碑の下のコンクリート部分にはアワビの貝殻が何個か埋め込まれていたが、その台座はく新たに打ったコンクリートの台座に石碑が立っていた。おそらく津波で流されたものを漁民達が元の位置に運び建て直したものだろう。碑は中心に龍神塔、右に弘化四未年(1847)左に四月吉日、下部に石工・甚蔵、喜久松、両村中、宝明院とある。

 次の石碑は鍬ヶ崎角力浜の先端にある通称・龍神様の社脇にある八大龍王の石碑だ。石碑は人工物のような素材で年号や施主の名はい。今回の津波では木製の社は流されたが石碑と石宮は残った。石碑は建っている位置が波打ち際でありこれまでも高潮や台風などで波にもまれることから建立当初に芯棒などが入れられたのかも知れない。ちなみに同敷地内にあった魚供養塔は津波で流失したらしく基礎部分しか残っていない。

 最後の石碑は黄金浜の旧老人福祉センター敷地内の龍神碑だ。この石碑は昭和50年代の国道45号線改修工事の際に石崎地区から移動したものだ。伝説によればこの石碑は磯鶏浜でまだ地引き網が盛んだった頃に時化で打ち上げられたもので漁師達がこれを龍神として奉ったものらしい。石碑中央に龍神碑、右側面に明治廿八年(1895)乙未、背面に船頭安右エ門・磯鶏地引網中の文字がある。

 今回の津波は埋め立てた藤原埠頭を直撃し船や巨大な台船を陸に押し上げ、埠頭に荷揚げされていた丸太を巻き込みながら磯鶏地区の民家を破壊した。

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