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2011/10 海嘯横死供養塔と一本柳の碑

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 震災後の宮古市は沿岸市町村の中でもかなり復興が進んでいるというが、実際に市内の被災地区を廻ってみると正直言って復興の兆しはまだまだ先のように感じる。震災後暗かった夜の街に次々と新しい飲食店がオープンしているようだが、まだ手が付かない震災家屋の解体撤去や震災後、点灯しない交差点の信号、通れないままの橋や道路など復興は先のまた先だ。被害の大きかった鍬ヶ崎地区などは昼の間は残暑の太陽に照らされているが、夜になれば僅かな街灯しかないあたかも死者が彷徨う真っ暗な街だ。誰もが口にはしないが以前のような生活にはもう戻れない…そんな予感を感じている。

 さて、今月も市内の津波記念碑や供養塔を廻ってみた。最初に訪れたのは宮古市佐羽根の旧街道沿いにある津波供養塔だ。田老地区と田代地区、そして雄又峠などを経て宮古に通じる道はかなり古い時代からあった宮古・岩泉を結ぶへ浜街道だ。現在は県道40号線として整備されたが田代川沿いの集落を歩くと石碑群や小祠などがあり、街道が集落の中心であり街道の両脇に民家が発生したことが判る。現在の県道は集落の外側を田代川沿いに走る細い4メートルほどの幅員しかない曲がりくねった道だが、この道が古い浜街道のバイパスなのである。石碑はそんな旧街道の小さなT字路にある。碑の上部の類、子、親の横書きがあり、中心には海嘯遭難横死供養、右に明治廿九年(1896)、左に五月五日、施主、佐々木鶴松、中洞要吉とある。上部にある文字は親子、親類という意味と思われる。

 次の石碑は佐羽根地区から東へ向かって海岸線へ出る小峠を越えた箱石地区から、国道45号線沿いの女遊戸地区にある津波供養塔だ。女遊戸地区の海岸線は今回の震災と津波で大きく被災しており、特に同地区にあった国管理の栽培魚漁業センターは震災から半年経った今も歪に曲がった鉄骨を晒したままの状態だ。女遊戸海水浴場は津波で大破した防波堤のコンクリートの巨大な塊が散乱している。それでもなんとか隣の中の浜へ通じるトンネルは通行可能で、中の浜からは直接川越をするが宿浜へのトンネルも通行可能で崎山古里地区まで自動車で移動できる。

 石碑は女遊戸地区の旧引導場横の石碑群の中にある。碑の中央上部に海嘯記念とあり、その下に「明治廿九年旧五月五日大海嘯ノ為本部落戸数廿一戸中流失家屋十九戸溺死者六十三名アリテ未曾有ノ惨状ヲ極メタリ…」と碑文で当時の状況が記録されている。台座には右から横書きで女遊戸一同とある。石碑群の横にあった引導場も今回の津波で流され土台しか残っていない。それでもお盆には地区民が訪れ供養を行った形跡が残されていた。

 次の石碑は女遊戸からほど近い日出島地区の津波供養塔だ。日出島地区も今回の津波で大きく被災し漁港にほど近い民家数棟は津波にのみ込まれた。また近代的に整備された日出島漁港も防波堤や岸壁などが大きく破壊されたままになっている。石碑は日出島地区の墓碑群がある高台にある。碑の中央には海嘯溺死者供養塔、右に明治廿九年五月五日、左に施主、佐々木福次郎とある。

 最後の石碑はこのコーナーや本誌特集でも何度か紹介している一本柳の碑だ。石碑は西町地区佐々木建設前の交差点にある。この界隈は昭和30年代から40年代にかけて開発された新開地で、以前は山口川北岸の田畑であった。碑は1メートルほどの自然石の岩塊に碑文を刻んだ御影石をはめ込んだもので「一本柳の跡」とある。この辺りが旧山口村であった頃の言い伝えによると、この場所に柳の大木があり、古くはこの付近を一本柳という通称名で呼んでいたらしい。碑文では年代不詳だが江戸時代に宮古地方を襲った「ヨダ(津波)」により山口川を逆流する波に乗ってきた「ダンベ(魚運搬用の舟)」をこの地にあった一本柳に繋留したという伝説があったことを碑文で伝えている。建立は平成元年六月吉日で山口の摂待氏ら有志らの建立だ。この伝説で語られる津波は江戸時代初期の慶長の津波なのか、南部藩雑書に田老村などの被害が頻繁に出てくる江戸中期~後期の津波なのかは判らないが、現在より埋立がされていなかったにしろ、西町付近まで船が押し流されて来る言い伝えは今回の震災を考えるとリアルな伝説でもある。

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