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2011/09 津波供養碑と防災記念碑

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 今月も先月に引き続いて津波関係の石碑を巡り歩いた。最初に訪ねたのは田老摂待地区の星山の石碑群だ。この附近は昔の街道だった場所で、現在の国道45号線摂待トンネルの上を峠として摂待から西に畑を経て有芸、岩泉へ、または海岸線を小成、茂師、小本へと続く道の分岐点でもあった。古くから塩や木炭、鉄を運んだ牛馬が通った歴史があり道供養や牛馬関係の石碑が多い。そんな石碑群の中に三基の津波関係の石碑がある。今回はその中から畠山長之助の碑を調べた。碑には大きく割れがあり、右に畠山長之助、続けて平素篤ク三宝ヲ帰祟シ恵心慈善事業ニ務メ曽テ三陸海嘯ノ災禍ノ時ニ私財ヲ傾ケテ、力ヲ生存者ノ救恤(きゅうじゅつ)ニ尽クシ…(以下略)と続く。要約すると畠山氏は明治39年の三陸津波の際、私財をなげうって生存者を救済し、犠牲となった多くの人々の追善供養を行った。その行為に対し西本山(にしほんざん)管主を代表し賞典法第八条により打敷一片念珠一聯(れん)を賞与したとある。台座には付け人・世話人として畑・畠山徳次郎、石畑・山本助太郎、小堀内・佐々木長作、摂待・館崎酉松ら12名の連名がある。畠山長之助という人は同敷地内の明治29年の津波供養塔、その三回忌として明治41年に建てた供養塔の施主であり、その他三峯神社供養塔、大威徳明王碑などの願主でもある。おそらくこの地区での民間信仰の第一人者であり、里に下った修験者であったかも知れない。今回の津波で摂待地区は漁港、漁港への取付道路、摂待川水門、あわび養殖センターなどが被害にあった。高さ30メートルほどの盛り土で築かれた巨大な水門だったが津波はそれを越えるどころか水門自体を破壊し摂待漁港のテトラポットを巻き込みながら川を遡った。幸い津波は民家がある片巻・星山地区までは到達せず民家は難を逃れた。

 次の石碑は今回の津波で大被害となった田老地区の常運寺境内の津波供養塔だ。碑は中心に海嘯供養塔、下に海嘯遭難者、山崎十九造、山崎徳郎、石名沢重吉…ら9名の名がある。台座には、大謀山崎十九造外八名は宮古町坂本嘉兵エ経営の磐城国四ツ倉漁場大謀網に従事し累年効果顕著なるものあり□らざりき。昭和八年三月□□□三陸地方大津波来襲し等しく避難の途を絶たれ挙げて不測の厄を蒙る…(以下略)と続く。要約すると大謀(棒)として漁師を束ねていた山崎十九造は8名の漁師とともに宮古町の坂下氏が経営権利を持っていた現在の福島県いわき市四ツ倉にあった定置網へ出稼ぎに出て漁をしていた際に津波に遭遇、遭難したのであろう。碑は四倉浜漁業共同組合、故人らの友人知人らの手により建立されたもので背面には、岩手県宮古町・坂下嘉兵エ、福島県四倉町・鈴木幸次郞、石工・宮古町田中政吉とある。

 次の石碑は常運寺隣の宮古市出張所、旧田老町役場前にある防災記念碑だ。田老地区は過去の津波災害を教訓として積極的に津波防災に取り組んできた経緯がある。町をぐるりと取り囲んだ防波堤はまさに世界的にも類を見ない防災建築物で多くの視察が訪れた。そんな田老地区は旧田老町時代の平成15年に昭和三陸大津波から70年の節目として津波防災の町宣言をした。碑には御霊の鎮魂を祈り災禍を繰り返さないと誓い、必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する勇気の発信地となる…(以下略)と刻まれている。碑でも説いているように再び津波は襲うとしながらも、痛ましいことにその規模は私たちの想像をはるかに超えるものだった。多くの人命を失い万里の長城、津波太郎とよばれたかつての防災のまちは今はない。

 最後の石碑は藤原観音堂裏の石碑群にある津波供養塔だ。碑は中心に三陸大海嘯横死者精霊、右に施主・藤原若者中、左に常安寺九世法運叟、背面に明治廿九年丙申年旧五月五日・六月建立とあっる、下部に竹原藤松・年七十・田老ニ(テ)死、岩船由松・年六十・同、佐々木勇助・年二十八・久慈ニ死…など8名の人名と年齢、亡くなった場所を刻んでいる。この碑に刻まれた人たちは藤原出身で各地区の建網などに出稼ぎなどで従事していて津波に遭ったのであろう。今回の津波は藤原地区にも大きな被害をもたらし津波直後の観音堂や隣接する公葬地には多くの水没車両が流れ込み墓碑が倒れるなどの被害となった。

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