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2011/09 壊さされた蔵から出てきた昔の家計簿

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 震災直後から一ヶ月が過ぎた頃、被害の大きかった「クワガサギアダリ/鍬ヶ崎界隈」では自衛隊の重機が入り遺体捜索を兼ねて家屋が「ブッカサレデ/壊されて」いた。集めた瓦礫は出崎に集められ分別された。そして100日が過ぎると市街地の「ドーロバダ/路肩」に出されたゴミや瓦礫もぐんと減り市街地でも家屋の解体がはじまった。重機が「コイソガスグ/せわしなく」動き見慣れた景色がどんどん「ブッカサレデ」ゆく。本町の高京、中央通の高岩、大通の国際劇場…。そして各店舗とともに過去の大火を教訓に建てられた土蔵も壊されてゆく。「ヒトマールギ/一抱え」もある太い梁や「ハッサ/柱」を何本も使った巨大な蔵が土と化してゆく。持ち主から見れば無用の長物であろうが古物骨董を愛でる者として、時とともに眠っていた文化を壊すいたたまれない景色だった。震災などなければ蔵や古民家が解体されると聞けば「ナードガカードガ/何とかして」人伝いに「ワダリーツケデ/口を聞いてもらい」解体前に内部に入って色々と買い上げるのだが今回はそんな余裕もなかった。とにかく毎日「アッツコッツデ/あちこちで」一気にものが壊れてゆくのであった。

 蔵という文化はアメリカのガレージ的感覚の物置や倉庫とは趣が違う。50年、100年、いや200年という長いスパンで物品を保存する保管庫であり物品を眠らせるタイムカプセルでもある。そこにはその持ち主でさえ知らない先々代の遺物が眠り、雨風や火災に耐えひっそりと時を刻んでいるのである。それは僅かの期間に財を成して成り上がったうわべだけの実業家の家にはない時間が積み重なった歴史でもある。しかし、そんな土蔵も大津波には勝てなかった。津波が去って内部に溜まった水が土壁を溶かし穴が空いてしまうのだ。

 一般の勤め人の家に生まれた僕は幼少時代から住居を転々としアパートや団地を住み歩いた。そんな暮らしだったから今まで幾度となく引っ越しをして多くの物品を捨てたり他人に「ケデ/あげて」きた。引っ越し当日「オメーハ、ハー、オッキグナッタンダガラ/お前はもう成長したんだから」と親に諭され、大量に集めた「バッタ/めんこ」やワッペン、人形、ミニカーなどを近所の小さい子に「ケダ」りした。子供ながら血と汗を流して集めたお宝ではあったが、なんとなく自分もそう思ったりして安易に手放してしまった。今考えるとなんのことはない引っ越し荷物を少しでも減らす親の口実だったと気づく。

 世の中には代々続く旧家に生まれ一度もそこを出ないで暮らす人もいる。そんな家には蔵があって子供の頃に使った「オガー/おまる」、古い子供用自転車、通信簿、教科書、ランドセル、マンガ本、親に隠れて読んだエロ写真集までしっかり保管されていたりする。そんな蔵を「スマコマデ/隅々まで」見聞してお宝を探し当てるのが僕の本来の理想だ。この震災でそのチャンスを失ったのは本当に悔しい。

 今回の震災による家屋解体ラッシュでは本誌特別号の編集や配達に追われ、蔵出しまで手が回らなかったが、それでも数軒の蔵や民家、店舗に入らせてもらった。それらはあの3・11の午後3時過ぎで時間が止まったままの店舗、津波直後放置された錆びた什器や泥だらけの「ムジョコイ/無情な」光景だった。そこには俗にお宝と呼べるものは見つからなかったが、津波で濡れなかった蔵の二階にもう使わなくなってしまいこんだ食器や古民具、先代が読んだであろう手紙や書籍などがあった。その中には古い家計簿、昭和30年初期の週刊誌や子供向け月刊誌、開戦翌年の昭和16年に発行された東京東雲堂発行の『少国民年鑑』などの本類があった。少国民年鑑は子供用の軍事教育図鑑で、天皇皇后陛下のカラー見開き肖像画にはじまり天皇家家系図、天皇旗、皇后旗、帝国在郷軍人会旗、帝国陸軍旗、帝国海軍旗、帝国勲章、褒賞、軍人の襟章、肩章、日本国をはじめ他国の軍備と軍事力などなど「ハーヨガベー/もういいだろう」というほど戦争色満載だ。この本を当時日本では「ワラスガドー/子供ら」に率先して読ませていたのだ。また、昭和32年の小学館『小学五年生』12月号の付録『目で見る世界の不思議』では怪魚シーラカンス、ネス湖の恐竜、空飛ぶ円盤、そしてこの年8月に起動した茨城県東海村の日本初、世界で77番目の原子力発電所を人類の知恵・第三の火として紹介している。今、東京電力の福島原発が大問題となっているが、日本人は戦後約10年で平和利用という名目で原発を稼働していたのだ。それから約50年、暴走したら止まらない危険な原発に今、苦しめられている。人類の知恵や英知など所詮は絵に描いた「モーヅ/餅」だなと思う。

 ある蔵の箪笥の中には昭和27年・主婦と生活社『主婦と生活』新年号付録・日記兼用模範家計簿があった。そこには万年筆や「エンペズ/鉛筆」で日付と購入した品と価格が記載されている。元旦は「サスミ/刺身」100円、天ぷら100円を年賀の「オギャクサマ/お客」に振る舞っている。日常の買い物は「タマナ/キャベツ」40円、「スズゴ/筋子」100円、「カゼ/ウニ」30円、「トーフ/豆腐」10円などの他、子供にあげた「コヅゲーセン/お小遣い」や、カミシバイ15円、ラムネ30円、支那そば80円、幼年クラブ(雑誌)86円、少女(雑誌)75円などの表記がある。この家計簿を書いたのは僕もよく知っている大正生まれのおばあさんがバリバリの主婦だった時代なのだが、新年の書き始めはきっちり記載されているが3月頃から字も「ズラメガステ/汚くなって」手抜きとなり、盆前には嫌々記録したのがありありと見え、盆が過ぎた8月17日からまったくの白紙だ。そんなもんだよね、主婦だって忙しいんだからとその気持ちもわかる。

 このおばあさん宅には数年前までよく「オジャノミサ/お茶飲みに」伺っていたが、寄る年なみには勝てず震災前から寝たきりとなってしまい足が遠のいた。蔵から出てきたこの家計簿を肴におばあさんに会って昔話を聞きたいものだが叶うだろうか。

懐かしい宮古風俗辞典

いだますー

痛ましいの意。心が痛む事柄、または状況、状態。痛々しい。

 震災で大切な人を失った人、血と汗で築いた家や店舗、財産を失った人など本当に心から「イダマスー/痛ましい」限りです。そして、震災直後の寒さの中、支援物資も届かない避難所で何日も過ごした皆様、本当に「イダマスー」思いでテレビ映像を拝見しました。そしてその状況を知りながら助けに向かいたくともガソリンもなく動けなかった人たちもやはり「イダマスー」気持ちがいっぱいだったことでしょう。

 浄土ヶ浜ぐらいしか自慢できない、陸の孤島と呼ばれた東北の田舎町でしたが、それでも自分にとっては大切なふるさとであり、「ワラス/子供」時代からの思い出が詰まったかけがえのない町でした。それが千年に一度とまで言われる大津波にのまれて大破しました。他の沿岸市町村に比べれば被害は小さいと言われますが、この町だって充分すぎるほど痛めつけられました。復興に向けて壊れた家屋が解体撤去され、「ガングラ/がらんどう」になったかつての街並みを見ると「ウダマスー」気持ちになります。そしてもう今は「メッツル/涙」も枯れ果て泣くこともないのです。ここで気持ちが折れたらだめだと、自分に言い聞かせているのですがこんな気持ちで年が越せるのでしょうか。

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