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2011/08 被災地の現実(東日本大震災)

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 震災直後、お互い無事だったことに喜び合ったが、みんな一様に覇気がない。町中が泥と瓦礫だらけの景色だから事あるごとに誰もがため息をもらす。それを見て「ナンダエー、ガンバッペスエ/どうしたの?がんばろうよ」と励ます自分もいつもよりどことなく「タウェーガナグ/張りがなく」両肩が落ち口調も説得力に欠ける。「イェーモ、クルマモナガサレダー/家も車も流された」「オラガイギデルウズニ、コンナナーメニ、アウドハオマワナガッタ/自分が生きているうちにこんな目に遭うとは思わなかった」「ホニステー/まったくその通り」「ソンダードモ/けれど」「トニカグ、イギデレバ、ナードガナンガ、ガンバッペス/とにかく生きてさえいればどうにかなるから頑張ろうよ」「…ソウダガネー/…そうだね」とみんながこんな会話だった。

 毎日余震が続いた震災直後の鍬ヶ崎や大通り界隈を歩くと、宮古はこのまま終わってしまうような気がした。商店街や飲食街が復帰するのは誰もが不可能と思った。繁華街の道は両側の民家や飲食店からは被災した家具や冷蔵庫などの「ゴミゴンドー/ゴミや不要物」で山積みだ。道路は津波が運んだ泥で「ヌガッテ/ぬかるんで」「ナガクヅ/長靴」でを履いていないと歩けない。いつだったか戦後の焼け野原から裸一貫で…と誰かの「ズマンパナス/自慢話」を聞かされたが、その時代ってこんな景色だったのかも知れないなと思ったりした。友人知人の家や店を訪ね安否確認と今後どうするかを語り合った。ある者は「オラーハー、ガイコグサイグ/おれはもう外国に逃げる」とか「モリオガサイグ/盛岡で商売をはじめる」と言う。いつも通っていた店の洒落たテーブルや椅子は泥だらけで、そこへ「ネマッテ/座って」真っ昼間から強い酒を飲む。酒を飲んで「イキポエデ/勢いをつけて」いる時は上機嫌だが、冷静になると心が痛む。こんな状態で店をやって誰が来るんだ?もう宮古に人がいなくなるんじゃないのか?再建のため多額の借金をするのか?はたしてそれを返済できるのか?と、不安は積み重なる。それでも何かしなければならないから海水で湿ったヘドロを「サラッテ/かき集めて」白い土嚢袋に詰める。壊れた冷蔵庫や家具を起こし汚水と海水に浸かった中身や電化製品を捨てる。停電と断水、そんな中でいつ終わるとも知れない効率の悪い作業が続いた。

 震災から数日が経ち人々が動きはじめると次はガソリン不足の問題が起こった。停電は一部を除いて復旧したが国道が寸断され八戸や仙台からガソリンが供給されない状態となった。海岸沿いの石油備蓄基地やタンクローリーも被災し深刻なガソリン不足が続いた。「ナンサ、ジュウタイステンダーベー/何で渋滞しているんだろう」「アブラーツメルヒタヅガ、コーヤッテナランデンノス/ガソリンを詰めたい人たちがこうして並んでいるのさ」「ズーット、ツヅーデッケーゾ/すっと遠くまで続いてるぞ」「ヅァ、ヒガクレッペート/最後が詰める頃には陽が暮れるぞ」とガソリンスタンド周辺の道は終日渋滞となった。数時間も並んで入れたガソリンはたったの10リッターと「チョチョペンコ/ほんの少し」の2000円分。「コレペーンコデバ、ドゴサモイゲーネー/これっぽっちじゃ何処にも行けない」「オラーソースギガアンダーゾー/オレは葬式に行かなければならないんだぞ」とスタンドの店員に食ってかかっても無理な話。後日どうして2000円分しか給油さてなかったかのか関係者に聞いたところ震災で銀行も閉まったままだったのでスタンド各店では「オヅリッコ/つり銭」が用意できなかったのも大きな要因だったらしい。そんな中、裏技が発生。朝早くから並んで「サンツカン/三時間」も待ってやっとガソリン詰めるぐらいなら「ヨンマノウヅニ/夜のうちに」ガソリンスタンドの前に車を止めておけば並ばずに済むというものだ。みんなちゃんと並んでるのに誰かがやると連鎖的にみんなが「ズルコ/ずる賢い真似」をやりだすのだった。

 市内の小学校・中学校の体育館のほとんどは避難所となった。それでも足りず市内の宿泊施設も避難所となった。救援に駆けつける自衛隊、警察、消防などそれらの人員の宿も必要だ。瓦礫の下からは「ホドゲサン/遺体」も出てくる。震災直後僕が自転車を押して毎日通った「オデラノサガ/常安寺墓所の坂」ではほぼ毎日喪服の人が並んでいた。あまりにもあちこちで人が死んでしまい、別れの席に呼ばれても「メッツル/涙も」流れない。

 被災地は一躍有名になりド田舎宮古も全国ネットだ。テレビのニュースキャスターは白々しく「被災地では今何が不足してますか?」と被災地に来ているレポーターに問う。レポーターは取り繕って身体を拭くタオルや下着などですねと答える。無神経な政治家やタレントが暴言のようなコメントを口にしては顰蹙をかう。毎朝「宮古市は必ずや復興します」と防災無線広報で語られても実感がない。悲惨さが「トーリゴステ/通り越して」もう誰も「メッツル/涙」も出ないし悲しくもないのだった。それでも「オマンマ/飯」は食わなきゃはじまらないからやっと開いた食料品店で買い物をしてリュックに詰める。野菜も肉も魚も高い。ならば豆腐か納豆を…と思いきや納豆工場も被災したとかで一人様1パックの販売制限なのであった。

 水洗トイレの水に雪しろ水を溜めるなど水を「タボスナンデ/節約して」いたが、震災後一週間ほど経って水が出た。地区によってはかなり遅れたところもあったが、これでやっと風呂にも入れた。そして念願の携帯電話が復旧しいつもの暮らしに戻りはじめた。

 宮古の復興は沿岸の各市町村に比べ早い方だと言う。確かに山田や大槌に比べれば被害も少なかったかも知れない。しかしそれなりに宮古だって大被害だった。これからまた試練の道が続くだろう。復興するパワーは「がんばろう宮古」だけじゃなく「イマニミデロォヨ、ミヤゴ/今に見ていろ、宮古」という這い上がるパワーなのかも知れない。

懐かしい宮古風俗辞典

よだ

津波のこと。語源は不明。

 大地震とその後の大津波によって壊滅的被害をもたらした東日本大災害は私たちの記憶に永遠に残る悲劇だった。昔から「オンズーオンバー/じいさんばあさん」によって語り継がれてきた津波の恐ろしさはまさに事実であった。それなのに人の忠告は「ケッツサキカセデ/背を向けて耳にも入れず」、「ムガスビド/先人」の教訓を「トソリノ/年寄の」「ヨメーゴド/世迷い言」として聞いた「フリッコ/ふり」をして棚上げしていた…そんな戦後生まれの私たちだった。そしてまさか、自分たちが大津波災害の語り部になろうとは夢にも思わなかったのであった。

 あれほど巨大な田老地区の防波堤もあの高さ以上の津波に襲われればひとたまりもない。人の知恵なんてそんなものだ。自然の力には逆らうことはできないのである。  先人は津波被害に対する多くの教訓を残しており、それは今でも通用する。大地震の後には必ず津波がやってくるのだ。今後はこの災害を風化させず語り継ぐのが私たちの役目なのである。

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