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2011/03 旧茂市村石碑散策

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 大荒れだった年末年始の天気で市街地もまだ雪が残っており市内のほとんどの石碑が雪に埋もれている。そんな状態だから2月号では石碑ではなく神社の石段や石柵などを見て廻り紹介した。それでも今月に入ったら寒さも多少緩んだ感があり、どことなく春間近のような気がして茂市周辺で石碑散策を行った。

 最初に訪れたのは旧国道340号線とかつての茂市繁華街を結ぶ茂市橋の袂のある庚申塔だ。石碑は中央上部に太陽と月を表す円と三日月がありその下に庚申塔とある。右には寛政十二年(1800)、左には九月吉日茂市村連中とある。そして年号と庚申塔の文字の間に「右ハ、ミやこ」「前ハ、モ…」、日付の横に「左ハ、かりやミち」と道標の文字が刻まれている。石碑に向かい右手が閉伊街道の宮古方面、正面の橋を渡れば閉伊街道の盛岡方面(石碑にはモとしかない)左手は刈屋村への道という意味だろう。石碑は下部を損傷し、道標の「モリオカ」部分の「リオカ」部分がない。また、台座には「岩手県」と陽刻されたプレートがはめ込まれていることから、国道表記の石などを石碑台座として後年にあてがったものだろう。いずれにせよこの三叉路は江戸期から昭和初期までは重要な分岐点であり交通の要所であったことが伺える。

 次の石碑は茂市熊野神社境内石碑群の中にあるものだ。碑は社に向かって左側後ろにあり中央に五訓之森、右に昭和九年一月四日、左に帝国在郷軍人会・茂市村分会建之とある。五訓とは建立した団体からも推測されるように、軍人の心得であり帝国軍人の世界観、生死観を箇条書きにしたものだ。基礎となっているものは明治15年(1882)明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡(くんかい・訓戒=事の善悪・是非を教えさとし、いましめること言葉)の勅諭で、正式名称は陸海軍軍人に賜はりたる勅諭という。これらは近年、小説や映画、テレビドラマなどでしか耳にしないが、表記すれば次のようになる。

ひとつ軍人は  忠節を尽すを本分とすへし ひとつ軍人は  礼儀を正しくすへし ひとつ軍人は  武勇を尚(とうと)ふへし ひとつ軍人は  信義を重んすへし ひとつ軍人は  質素を旨とすへし

 これらは天皇制国家における軍国主義の象徴で、当時の児童たちを洗脳した教育勅語と並んで戦前日本のイデオロギーでもあった。戦後これらの勅語は封印されたが、当時を生きた人々にとって懐かしくもあり、胸が痛むスローガンでもある。

 次の石碑は旧茂市村と刈屋村の境附近でもある和美地区の山林にある石碑だ。この附近は昭和17年(1942)に小川村から耐火粘土を運ぶために敷設された軽便鉄道であり、後の岩泉線が通ったため古い家屋や屋敷墓地、石碑などの多くが線路より東側に移転している。今回探した石碑は鉄道による移転をまぬがれたもので、線路西側の山林に佇んでいた。 まず紹介するのが鶏魂碑という養鶏に関係する石碑だ。和美地区に古くから住む和美氏の先祖は中世の頃平泉から落ちてきたとされ現在の線路西側を開墾し大きな屋敷を構えていたが、その後東側に移転、戦後には農業の他に養鶏などの事業も興した。石碑には昭和四十年(1939)の年号がありその頃、飼育する鶏を供養するため建立したものだろう。

 最後の石碑は石宮だ。前述の鶏魂碑の側にあり左側面に明治廿一(1888)戌年子旧九月八日の年号がある。この祠は地の神(御農神)として信仰され、火災供養の伝説がある。地元の古老によると伝説は次の通りだ。 その昔、この地区にいた老父婦の娘は精神障害があり離れに囲いを作り外へ出さないようにしていた。しかしどうしたわけか娘の部屋にはいつの間にか乳飲み子がおり娘は子供をあやして過ごしていた。老父婦は秋になると源兵衞平にドングリを拾いに行った。ある日山から帰ってきたら家が火事になっていた、慌てて家財道具などを運び出したが娘を囲っていた離れから娘を救うことは出来なかった。火災後老父婦は娘を不憫に思い供養塔を建てたという。石宮はそんな伝説を含みながら明治期に建て替えれ、火災供養あるいは火伏御利益として地区限定で語り継がれたものだろう。

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